93「論語」を題材として「言語文化」から「古典探究」へ─江戸期の日本漢文を活用した学びの分析と提言─と回答していた。事実、我々教員も「自力で原文が読める」ことを目指して文法を教えようとする。だが、質問した生徒は、どうして原文でなければならないのかを聞きたかったように思われた。これは多くの生徒にとっても同様だと推察される。ここで、今次学習指導要領改訂の前提となった、もう一つの要因が想起される。それは、「主体的な言語活動が軽視」 されていることに因る学習意欲の低下である。そこで言語活動の一層の充実が図られることになるのだが、その時間を捻出するために文法指導の精選が不可欠となろう。精選の選択肢としては、現代語訳を予め提示するや、授業によっては文法指導を行わない等も含まれるのだが、これらは必ずしも原文の軽視には繋がらないと考える。ただし、原文の理解を口実にした文法偏重の授業は成立しないであろう。「なぜ文法なのか」、「なぜ原文なのか」という生徒の疑問は、学習者側に立った視点として尊重されなければならないのである。そのうえで、「原文」が読めることの利点を生徒が実感できる授業を研究・実践することが課題である。おわりに―「古典」を味方に付ける―最後に、「原文」が読めることの利点について言及しておきたい。筆者が担当する「漢文学」の授業で複数の学生から、「他の授業で「「教育勅語」をどう考えるか」というグループワークを行ったが、話し合いは「よくないもの」という方向に進んだ。でも、自分にはその理由がよくわからない」という質問を受けた。ある学生は、「自分は「教育勅語」の全文を読んでみたが、「親孝行しよう」や「夫婦仲良く」や「社会のために貢献しよう」と言っているし、これは世界共通の真理だとしている。それなのに、なぜだめなのか疑問を持った」と言う。そこで、筆者はどんな「全文」を読んだのか尋ねると、某公式サイトのホームページに記載されていた「全文訳」だという。その学生は「原文」は見たけれども意味がよくわからず、語句を調べたりもしなかったらしい。そこで、冒頭の「朕惟フニ」や「臣民」の意味だけでも調べてみてはとアドバイスした。後日、同学生は、全体の意味は訳文と照らし合わせてなんとか確認することができたが、訳し方によって大分印象が異なることがわかった。と報告してきた。ここでは「教育勅語」の是非については述べないが、このような事例は、古典を「自分事」として考えるうえで、「原文」をある程度理解できるのは「利点」だということの証であると考える。前出の高校生との対話でも「どうして原文なのか」が話題にあがったが、その際、筆者がこの事例を話したら、高校生自身もそうした体験があるという答えが返ってきた。それは「世界史」の「宗教改革」の授業でのことだ。ある宗教学者が「聖書」の原文を読み解き、それを民衆に広げることで改革を進めることができたと学んだという。本論文でも『論語』の解釈をめぐって論じてきた。忘れてはならないことは、たとえば、「孝」についての議論だが、原文は「父母唯其疾之憂」の七文字ということだ。こうした議論には、歴代の注釈者の主張や思想も組み込まれてきた。したがって、どれが原義に近いかや解釈の優劣を決することには困難だろう。ましてや生徒が解釈は一つだと思い込むのは危ういし、一つの正解を求めるも古典作品に向き合う姿勢ではない。これは古典だけではなく、どんな情報に対しても同様だろう。今後、古典における主体的・探究的な学習に対する研究として、教員養成課程で「漢文学」を
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