教育評論第39巻第1号
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おさらい90早稲田教育評論 第 39 巻第1号山は、前述の③「人不知……」の孔子が晩年、政治を離れて弟子の教育に専念したときの境地を述べたもという解釈を踏まえて、「私はこの解釈を知ってから、学生に対して決して怒らなくなった」38と述べている。筆者自身もこの解釈に共感し、「漢文学」を履修している学生に示してみた。これに対する学生の反応は頗る良く、「自分も部活の後輩に対してそうありたい」や、「塾や家庭教師のアルバイトの時にも当てはまると思う」等の意見が出て授業が活性化した。さらに①〜③の流れの解釈としては、高橋源一郎(2019)の「いくつになっても勉強するのはいいものですよねえ。みんなでこの教室に集まって一緒に勉強している時は特に楽しいですね。だってひとりじゃセンセイだってつまらないですよ。それと同じで、友だちが遠くからわざわざ話に来てくれるのも嬉しいですよねえ。みんなもそうでしょう?ひとりじゃ生きていても寂しいですしね。でも、その代わり誰かに会ってその人が自分をせんぜんしらなくて『あんた誰?』とかいわれたりするとムカツいて、クソ誰とも会うんじゃなかったよとか思ったりするんです。人間ってほんと勝手なんですよねえ。みなさんは、そんなことで腹を立てるような人にならないでくださいね。……」39というものもある。勿論、これは超訳ではなく、①について、ただ勉強す習会をひらく」40ことを踏まえた解釈である。これもるのではなく、「(弟子たちが集まり)が温また、従来の表面的な解釈では理解できない、孔子の言わんとすることが伝わってくる解釈の例として学校現場でも生かすことができよう。次に、一般向けの注釈書では、「時」はどのように説明されているかについても概観していく。新釈漢文大系『論語』では、「時」の語釈を「学ぼうとしてやれる時はいつでもの意。二六時中。常に」(吉田賢抗、明治書院)としている。また、貝塚茂樹は、孔子の時代の古典の教科書的な書である『詩経』や『書経』などの「時」の用例を挙げ、「時」を当時は具体的な意味を持たない助字として「ここ」と訓じ、「この場合も同様で、「これ」とか「ここに」とか読んで、「そのあとで」などと訳すのは私の新説である」41と述べている。さらに、吉川幸次郎は「「時に」とは然るべき時、英語でいえばtimelyの意であって、時どき、occasionalの意ではない。勉強したことを、「時に習う」、しかるべき時に、何度も繰り返しておさらえする、その都度に理解は深まり、自分のものとして体得される。」(『論語 上』角川ソフィア文庫)と解説する。また、加地伸行は、「学ぶことを続け、(いつでもそれが活用できるように)常に復習する。」と訳している。(『論語』、講談社学術文庫)。その他にも、「学んだことをしかるべきときに復習するのは、」(井波律子、岩波書店)、「学んでからその内容を繰り返し復習して自分の中で熟成させる。(「時に」:「しかるべき時に」と「常に」の二つの解釈があるが、ここでは後者であろう。)」(土田健次郎、ちくま学芸文庫)等がある。ここに挙げただけでも一般向けの『論語』の注釈書は豊富であり、学生でも入手し易い。「時」について、自分が使用した教科書以外にも別の教科書ではどう説明されているか、あるいは、自分たちが中学で習った教科書ではどうか。「特別の教科 道徳」ではどうであったか等、それらを比べて自分が最も納得する解釈をしてみるという課題に取り組んだ場合も、主体的に調べ学習を行うことができる。これは高校生にも可能な言語活動であろう。また、原文である漢文に対する抵抗感が強い生徒を想定した授業では、前出の影山・高橋のような書籍を扱うことも、「学習

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