86早稲田教育評論 第 39 巻第1号扱う単語は、生徒の抵抗感を考慮して現代の言語生活でも日常的に使われているものがよい。そこで本項では、既習の「学而時習之……〈学びて時に之を習う……〉」(学而第一)に着目した言語活動として、「時」という一語を考察する学習を提言したい。『論語』はこの章段から始まる。「性」でも考察したように、孔子は「勧学」を重視していた。学ぶ喜びと楽しさを説いたと言われるこの章段が『論語』の第一に置かれたことは、まさにそのことを示しているようである。新旧注釈書の原文と書き下し文は次のとおりである。〈『論語』の原文〉 子曰、学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不溫、不亦君子乎。〈書き下し文〉 子曰はく、学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。朋遠方より来たる有り、亦た楽しからずや。人知らずして溫みず、亦た君子ならずや。まず、歴代の『論語』の注釈書における「時」の解釈を見ていきたい。新注では、「時時」とある。「時時」とは、「いつも、常に」の意味である26。一方、古注は孔子に近い時代のものであるためか、もっと詳しく「時」について注釈をつけている。当該箇所は次のとおりである。『論語集解』(古注)27 王粛曰、學者、以時誦習之。誦習以時、學無廢業、所以爲悦懌也。〈現代語訳〉 王粛は、「時とは、学ぶ者が、然るべきおりに読み習うことである。読み習うことを然るべき時に行い、学びがやむことがないので、よろこばしのである」と言っている。『論語集注』(新注)28 習、鳥數飛也。學之不已、如鳥數飛也。説、喜意也。既學而又時時習之、則所學者熟、而中心喜説、其進自不能已矣。程子曰、習、重習也。時復思繹、浹洽於中、則説也。又曰、學者將以行之。時習之、則所學者在我。故説。謝氏29曰、時習而不習、坐如尸、坐時習也。如齊、立時習也30。〈現代語訳〉 「習」は鳥が何回も飛ぶこと。学ぶことをやめないのは、鳥が何回も飛ぶことのごとくである。「説」はよろこぶという意味。既に学んだことをまた何回も復習すれば、学んだ内容は熟し、心中はよろこびにあふれ、そうして自ずと進歩し続けるのである。程子が言うことには、「「習」とは重ねて習うことである。何回も熟慮し、心の中にいきわたらせれば、よろこびが湧き上がってくる。」また言う、「学に志す者がまさに学ぼうとするとき、何回も復習すれば、学んだ内容は自分の身につく。だからよろこぶのである。」と。謝氏が言う、「「時習」とは、習わないときがないということである。「かたしろ(祭礼をとりしきるもののことか)のように(行儀よく)座る」とは、座っているときにも習っているのであり、「齊戒(祭礼(学而第一)
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