85「論語」を題材として「言語文化」から「古典探究」へ─江戸期の日本漢文を活用した学びの分析と提言─を守る所以の者、自ずから謹まざるを容れず」と。未だ武伯の人と爲り何如なるを審らかにせず。安んくんぞ二説の孰か當れりと爲すを知らんや。然れども父母は豈に唯だに疾のみ之れ憂へんや。且つ孟武伯 孝を問ふ。而うして孔子の答ふるに父母の心を以てするは、豈に理ならんや。且つ孟武伯をして父母に憂へを貽らざるを以て孝と爲すことを知らざらしめなば、則ち孔子の答へは、亦た迂ならずや。若し孟武伯をして之を知らしめば、則ち孔子の答へを俟たじ。是れに由つて之を觀れば、舊註を優れりと爲す。大氐宋儒は動もすれば輒ち諸を心に求む。是れその深痼の、時時に發し見らるるのみ24。〈現代語訳〉 孟武伯が孝を問うた。孔子は「父母に心配かけるのは病気のみにすることだ」と答えた。古注には「孔子の意図は、孝行息子は妄りに心配をかけないものだ。ただ(不可抗力である)病気だけは父母に心配させる」とある。朱註には「孔子の意図は、父母が子を愛する気持ちは至らないところがないが、特に病気になることをおそれ、いつもそのことを心配している。子はこれに心をとめて父母の気持ちを念頭におけば、自分の身を守るために自ずと行動を慎むようにならざるを得ない」とある。まだ武伯がどんな人物か詳らかではないので、二説のいずれがよいのか判断できない。しかし、父母は子の病気だけを心配しているわけではない。そのうえ、孟武伯は孝について問うているのだ。それなのに、孔子が父母の心情を以て答えとしているのは理にかなっていない。なおかつ、孟武伯に父母に心配をかけないことを孝だと教えるのなら、孔子の答えはまわりくどい。もし、孟武伯にこれを知らしめるというのならば、孔子に言われるまでもないことだ。こうしてみてくると、旧注の方が優れているだろう。およそ宋儒は、ともすればこれを「心」に求める。ここでも、その悪習が現れただけなのだ。徂徠は、両者を比較して旧注の解釈の方が優れているとしている。その理由は、「孝について質問しているのであるから、親の気持ちで答えるのはおかしいし、孟武伯がどのようであれ、朱熹の言う内容は答えとしてそぐわないからだ。」25とする。さらに、何でも「心」に論点をもっていこうとする病がみられると朱子学を批判している。以上、徂徠は、そもそも「孝」とは子が親を思う気持ちだと捉えているようだ。仁斎の主張も同様であるし、現在の日本人もそう取るのが一般的であろう。国語辞典でも「孝行」を引くと、「親の心に従い、よく仕えること。親を大切にすること。親を大切にするような行ない。また、そのような心掛けであるさま。」(『日本語大辞典』)、「子が親を敬い、親によく尽くす行い」(『広辞苑』)などとあるので、「孝」というのは親の気持ちではなく、子の気持ちであるというのは、日本特有の考え方なのかと思われた。だがそうでもないらしく、『論語正義』(劉宝楠)によると、後漢の王充(27?〜97?年)や高誘(生没年不詳)も仁斎や徂徠と同じ考えであったようだ。⑶ 探究的な言語活動の提言前項までに取り上げてきた比較教材は文章を対象としたものであった。しかし、実際の学校現場では授業数の確保が課題となっている。そこで本項では、文章を比較する時間的余裕のない場合を想定した教員養成課程の実践として、「単語(語)」レベルでも可能な言語活動を提言する。ポイントは、普段の学習で行っている「語句の意味調べ」をもう少し意識的に行うことである。
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