教育評論第39巻第1号
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84早稲田教育評論 第 39 巻第1号がこの箇所に示されているのである。朱熹と仁斎の「性」に対する見解は全く同様ではない21が、いずれも「性善説」に立っている。その点で、徂徠から見れば等しく批判の対象となるのである。さらに、同教材にある『論語徴』の脚注、「「徴」は「求める」「照らし合わせる」の意。」についても補足説明しておく。『論語徴』題言22によると書名は、「徴」〈照らした〉ことから出ている。つまり、『論語』解釈の根拠を、「古言」及び「古文辞」に求めたということである。以上のような『論語』の解釈をめぐる朱熹、仁斎、徂徠の関係を踏まえて、「古典探究」ではどのような言語活動が可能か。また、「言語文化」からの継続・発展を図るためにはどうしたらよいかについて以下で教員養成課程の授業構築を試みる。6.「言語文化」から「古典探究」への継続・発展⑴ 「古典探究」の言語活動「古典探究」の教科書では、「言語文化」からの連続性や差異についてあまり明確化されていないが、比較する教材の情報量や、分析教材自体の難易度に違いがみられる。したがって、扱い方に注意しなければ、研究部会の協議で指摘されたように、古典学習の理解を深めているのか、情報処理をしているのか不明確になる。また比較する各々の教材自体、内容の難易度が高くなるため、比較読み等の言語活動の効果が十分得られず、結果的には各々の教材に対する理解も不十分になってしまう恐れも生じる。これでは「古典嫌い」を助長する言語活動になりかねない。それを避けるために、『論語』の教材化とその扱いについて検討していきたい。⑵ 主体的・探究的な言語活動教員養成課程の「漢文学」では、「言語文化」の教材を利用して『論語』における「孝」について朱熹と仁斎の注釈の比べ読みをおこなった。本項では「古典探究」に繋がる学習として、徂徠の「孝」に対する主張にも目を向けてみたい。『論語徴』の同章段における注釈は次のとおりである23。 孟武伯問孝。子曰。父母唯其疾之憂。古註。言孝子不妄爲非。唯疾病然後使父母憂。朱註。言父母愛子之心。無所不至。唯恐其有疾病。常以爲憂也。人子體此而以父母之心爲心。則凡所以守其身者。自不容於不謹矣。未審武伯爲人何如。安知二説孰當乎。然父母豈唯疾之憂哉。且孟武伯問孝。而孔子答以父母之心。豈理乎哉。且使孟武伯不知以不貽父母憂爲孝則孔子之答。不亦迂乎。若使孟武伯知之。則不俟孔子之答矣。由是觀之。舊註爲優。大氐宋儒動輒求諸心。〇〇深痼。時時發見耳。(※〇〇は欠損箇所である。)〈書き下し文〉 孟武伯 孝を問ふ。子曰く、「父母には唯だ其の疾のみ之憂へめん」。古註に「言ふこころは孝子は妄りに非を為さず。唯だ疾のみありて然る後に父母をして憂へしむ」と。朱註に「言ふこころは父母が子を愛するの心、至たらざるところ無し。唯その疾有らんことを恐る。常に以て憂へと爲るなり。人の子 此れに體して父母の心を以て心と爲さば、則ち凡そ其の身

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