82早稲田教育評論 第 39 巻第1号ここで、どのような話し合いの可能性があるのか考察してみたい。筆者が担当する「漢文学」の授業でこれらの教材を紹介し、「「孝行」について自分の経験に引き寄せて考える」というテーマでグループでの話し合いを実践した。条件として、二つの解釈の優劣ではなく、どのような解釈の可能性が考えられるかを話し合うこととした。その結果、次のような意見が挙がった。・仁斎の言うように、親が生きているうちに親を気遣い大切にするのが孝行だと思う。・日本では、同居する、しないにかかわらず、親の老後は子どもが面倒をみるのが孝行とされていると思う。・自分の親は普段から、子どもには老後の面倒をかけたくない、親の介護のために自分のやりたいことを諦めて欲しくない、と言っている。だから、子どもが健康で自分の人生を歩んでいくのが一番の孝行だと思う。だからどちらかと言えば朱子の解釈に近い。・高校の授業で、孔子は、人によってその人に合った答え方をしていることを知った。ここでも孟武伯がどんな人かによって解釈が違ってくると思う。たとえば、健康状態。孟武伯が病気がちならば、「子ども自身が健康でいることが孝行」とか、「病気だけは仕方がないが、それ以外のことで心配をかけないのが孝行」ということになるかもしれない。・現代とは医療事情が違うから、親は今よりも子どもの健康を祈ったかもしれない。そうすると、子どもが健康でいることが孝行となる。でも、それは高齢である親に対しても同じで、子どもは親が健康でいられるように心配するのが孝行とも取れる。高等学校で同様の言語活動を試みた場合、生徒の実態にも依るが、話し合いが滞ることが想定される。その場合の対応として学生は自らの実践経験を生かし、「孔子は、人によって、その人に合った答えをしている。質問した孟武伯がどんな人物がわからないが、人格や健康状態を想定して考えてみてはどうか」等の助言ができるのではないだろうか。どの時代の誰もが、自分に引き寄せて考えられるのが「古典」の良さなのである。最後に教材研究に資するよう各注釈書の解釈の異同をまとめてみたい。古注の説では、「父母には唯だ其の病を之憂えしめよ」と読み、両親にはせいぜい病気のことだけを心配させなさい、と解釈する。つまり、病気になって親に心配をかけるのは致し方ないが、ほかのことで心配をかけてはいならない、と解釈するのである。一方、新注では、親は子が病気にならないかとそれだけを心配している。したがって病気にならないように身を慎むことが孝行だ、と解釈する。結局、子が健康でいることが一番の孝行だと言っているのだから、その点において両者の説に差異はないと言えよう。これに対して仁斎は当時の日本でも主流であった新注に流されることなく、「子が年老いた父母の健康を第一に考えるのが孝行」と独自の解釈を示しているのである。⑵ 古典探究の教材論語の解釈に関する教材として、「古典探究」では「人の本性とは何か」という単元で、「性」についての章段を扱っている20。採録されている章段は、「子曰、相近也。習相遠也。」(陽貨第十七)である。書き下し文と現代語訳は次のとおりである。(書き下し文は教科書の訓点に依る。)
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