教育評論第39巻第1号
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80早稲田教育評論 第 39 巻第1号 〈現代語訳〉子貢が(孔子に)たずねた。「ここに美玉があったとします。これを蔵にしまって保管しますか、(それとも)よい値段がつくのを待って売りましょうか」孔子が答えた。「売るよ。売るよ。私はよい値段がつくのを待っているのだ。」この章段は、子貢が孔子の士官の意志を推察しようとしたものとされている。孔子は単なる理論家にとどまらず政治の場での活躍を望んでいたので、「沽之哉。沽之哉。」になぞらえて士官の意志を伝えているというのである。朱熹は北宋の邢苪の『論語注疏』に依って「賈」を「嫁(カ)」と読んで、値段の意味としているが、古注では「古(コ)」と読んで、「商人、仲買人」のように解している。この箇所に関して劉宝楠は、「賈」の字音は「古(コ)」であり、「賈人(商人、仲買人)」の意という立場を取っており、その根拠として徂徠の『論語徴』を引用している。引用部は次のとおりである。〇『論語正義』(劉宝楠)の徂徠の引用部 物茂卿云、善賈者、賈人之善者也、賈音古。徂徠は、「善賈」とは良い賈人(商人、仲買人)のこととし、字音は「古」であるとしている。つまり、「嫁(カ)」と読んで「値段」としたのは誤りとする立場である。そして、「玉は価値を判定するのが難しいので、それを見抜く目利きの仲買人が必要になる」13ため、孔子は良い仲買人を求めているのだと説いている。ここでも劉宝楠は自説の正当性の根拠の一つとして徂徠の『論語徴』を引用しているのである。これら引用について藤塚は、「かように、論語学として清朝第一の名著に、よしんば唯二條のみにせよ、特記して引用されてゐると云うことは、頗る珍とすべきである」14と述べ、これを画期的なことだと賞賛する。さらに、『論語徴』の外にも舶載されたものとして、「大學・中庸解・辨道・辨名・蘐園随筆・徂徠集など少なくないが、これ等の書も相當に紹介され利用されてゐる。」15と述べる。また、朱謙之(1899〜1972年)16は、「徂徠之学、不但伝入中国、且輸入朝鮮、……〈徂徠の学は中国へ伝播したのみならず、朝鮮にも伝わった……〉」17と述べ、朝鮮への影響にも言及している。このような書籍の伝播を知ると、学生の中には、徂徠と同じ江戸期の書籍、例えば、松尾芭蕉の『おくの細道』や、本居宣長の『玉勝間』、新井白石の『折りたく柴の記』等は伝わらなかったのかという疑問を持つ者もいるかもしれない。しかし、残念ながら伝わることはなかったようだ。それは、文学作品や私的な記述は、一般に和文体で書かれていたからである。それに対して、思想などに関わる儒者の文章は、ほぼ全て漢文で書かれており、中国や朝鮮等でも十分理解されたのである。参考までに、仁斎の場合はどうであったかついて、吉川幸次郎は、仁斎の漢文はそのまま中国人に読めたはずだとしながらも、「徂徠の「論語徴」は、清朝の学者によってときどき引用され利用されているが、仁斎は、いままでに中国に紹介されたのを、聞かない」18と述べている。学生はこれらのことから、「漢文」が「東洋のラテン語」と言われる所以と、当時

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