教育評論第39巻第1号
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⑶ 江戸期の儒者と東アジア本項では、徂徠の『論語徴』が中国文化に与えた影響について言及する。中国では、清代になるとそれまでの注釈書の吟味が進み考証学が盛んになった。『論語』に対しても精密な考証が行われ、その信頼できる成果として劉宝楠(1791〜1855年)の『論語正義』(同治5(1866)年)が刊行された。名著とされるこの書に徂徠の『論語徴』が引用されている。該当箇所は次の二か所である。【一か所目】〇『論語』の章段 子釣而不綱弋不射宿(述而第七) 〈現代語訳〉孔子先生は、釣りはなさったが、(それは竿を使った一本釣りであり)“はえなわ”は使わなかった。(飛んでいる鳥を狩るのに)“弋(いぐるみ)”は使ったが、木に止まっている鳥には射かけなかった。従来、この章段は、孔子は生活のために、あるいは趣味として魚釣りや鳥の狩をすることはあったが、決して不要な殺生はしなかったという「仁」を語ったものだとされてきた。この章段における劉宝楠『論語正義』の徂徠の引用部は次のとおりである。〇『論語正義』(劉宝楠)の徂徠の引用部 物茂卿論語徴云、天子諸侯、爲祭及賓客則狩、豈無虞人之供、而躬自爲之、所以敬也、狩之事大、而非士所得爲、故爲祭及賓客則釣弋、蓋在禮所必當然焉、古者貴禮不貴財、不欲必獲、故在天子諸侯則三驅、在士則不綱不射宿10徂徠の『論語徴』は、「綱」は「網」の誤りとしたうえで、ここでは仁などを問題にしていない。これは礼の問題であると説く。古の礼では、狩は天子や諸侯が祭祀や賓客のもてなしのためにするものであったので、士は、狩はできず、祭祀や賓客のもてなしのためには「釣」や「弋」をした。これは後世の貨幣経済のように市で調達するようなものではない。また「網」や「宿を射る」は、君子がすることではなく、民がすることであった11。と注釈するのである。劉宝楠は『論語正義』で、「恐人誤作網矣〈「綱」は「網」の誤りではないか〉」という自説を述べている。これは徂徠の解釈と同じであるようだ。また、徂徠はこの章段は「仁」ではなく「礼」の観点から述べられているとしているが、この点は劉宝楠も同様で、徂徠の説を以て自らの主張の正当性を強化しているのである。日本の漢学者である藤塚鄰(1879〜1948年)は、この引用に対して「惟ふに正義は、此の説を異常の卓見として重視したやうに見える」12と述べて賞賛している。【二か所目】〇『論語』の章段  子貢曰、有美玉於斯。韞匵而蔵諸。求善賈而沽諸。子曰、沽之哉。沽之哉。我待賈者也。79「論語」を題材として「言語文化」から「古典探究」へ─江戸期の日本漢文を活用した学びの分析と提言─(子罕第九)

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