69フランスにおける旧植民地および移民へのまなざしの変化─国立移民史博物館の沿革から─た。また、ナチズムから逃れてきた多数のユダヤ人難民の到着は、この状況に拍車をかけた。第7の「1940年:戦時下の外国人と迫害される人々」の区分では、ドイツ軍によってパリが占拠され、ヴィシー政権が成立した1940年が軸となる。1942年以降、ナチスは占領下のヨーロッパでユダヤ人の絶滅を計画、実行し、ヴィシー政権はこれに同調した。しかし、ユダヤ人の一斉検挙と強制送還、特に子どもたちが強制送還されたことによって、フランス国民の問題意識が次第に高まり、救出行動へと繋がっていったとされる。1944年には、レジスタンスのメンバーや軍隊に動員された外国人、被植民地の人々が解放運動に参加した。第8番目の区分である、「1962年:復興、脱植民地化、移民」では、1947年から1975年の間に、フランス国内の外国人の数が170万人から340万人へと倍増したこと、また、その背景に外国人労働者としての移民や、冷戦の中で共産主義国や独裁政権から逃れた難民が存在することを述べている。1962年は、アルジェリアが8年間の戦争の末に独立した年である。アルジェリアの独立は、100万人のフランス人引き上げ者を含む、大規模な移民移動の発端ともなった。ヨーロッパからの移民は、たとえ非正規であっても、依然として好まれていたが、旧植民地の出身者であり、現在は「移民労働者」と呼ばれる人々に対する不信感は根強かった。外国人―実際は非ヨーロッパ系移民と思われる―がさらに目立つようになり、彼らの不安定な生活環境が、新たな団結と動員の引き金となった。第9番目の区分である「1973年:移民の政治化」は、石油危機にともない世界的に経済が混乱した時期を扱う。フランスでの労働移民の受け入れが一時停止され、大統領であるヴァレリー・ジスカール・デスタン(Valéry Giscard d'Estaing, 1926-2020)政権下である1977年から1981年に移民政策が厳格化され、移民の国外退去を促す「帰還支援」政策の導入や、移民の担っていた労働をフランス人女性労働者に代替させるなどの政策がとられた。その一方で、反植民地運動や移民労働者の権利をめぐる運動が高まりを見せた。第10番目の区分では、1983年に行われた「平等と人種差別反対を求める行進」が中心的に取り上げられている。これによって移民の子孫の存在がより注目されるようになり、現在10年間有効な滞在許可証の導入にもつながった。1981年にフランソワ・ミッテラン(François Maurice Adrien Marie Mitterrand, 1916-1996)が大統領に選出されると、フランス政府は非正規移民の身分を正規化し、外国人に団結の権利を与えるとともに、国外追放を停止し、過去10年間の抑圧的な措置を部分的に解除した。しかし1983年のパリ市議会議員選挙においては、移民を激しく非難する政党である国民戦線が、労働者が多く居住するとされる20区で多くの票を獲得、パリ市郊外のドゥルーにおいても議員を輩出した40。郊外においては、移民の多い大規模団地から転出する中流家庭が増え、都市政策や統合政策の難しさが顕在化していた。移民政策の強化の結果、フランスに「統合」されうる正規の身分証明書を持つ者と、「強制送還」されうる身分証明書を持たない者との格差が広がった。第11番目の区分である「1995年:欧州の時代」では、シェンゲン協定によって加盟国の国境管理の撤廃が定められた1995年が取り上げられている。シェンゲン協定は、パスポート不要の自由な域内移動を可能にした。2023年には27カ国で構成され、そのうち23カ国がEU加盟国である。これによってヨーロッパの人々の移動経路はより自由なものになったが、アイルランド、キプロ
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