写真4:ラザール・ポンティセリとブーツ(inv.2021.4.1.0.)68写真3:反ユダヤ主義の雑誌LeRire(DOC.2023.18.1)とPsst...!(inv.2010.28.25)(2023年8月17日筆者撮影)9歳の時にイタリアから移住し、後に弟とともにフランス軍に加わった。戦闘で負傷したが、数々の勲章を授与された。戦後は弟とともにビジネスで成功し、1939年にフランスに帰化した。長命であったため、第1次世界大戦に従軍した「最後のフランス兵」と呼ばれていた。(2023年8月17日筆者撮影)早稲田教育評論 第 39 巻第1号フランス政府と外国人排斥の圧力によって国外撤去を余儀なくされた。他方、戦力の増強を目的に外国人が必要とされた側面もあり、ラザール・ポンティセリ(Lazare Ponticelli, 1897-2008年)もその一人である(写真4)。同時期には、国家が移民の募集、管理、統制に大きく関与するようになった。1917年4月にフランス政府は、在留証明書として有効な外国人用の身分証明書を作成した。また、外国人と植民地出身者のための労働証明書も作成された。これらの身分証明書が以降の移民政策の中で中心的な役割を担うものとなり、戦後は、それらが1枚に統合された身分証明書が発行された。第6の区分である「1931年:危機に直面して」では、植民地博覧会が開催された1931年を軸にしている。1931年までには、外国人がフランスの人口の7%を占めていたが、その大半は、イタリアをはじめとするヨーロッパ諸国からの労働移民であり、フランス植民地出身者の数は少なかった。こうした状況下の1931年5月、パリで国際植民地博覧会が開催され、ポルト・ドレ宮が開設された。フランス国内においても植民地統治に対する批判的な見解がみられるなか、植民地博覧会は、フランスが植民地経営によって未開地域に文明をもたらす意義を強調し、フランス国民の植民地に対する理解や肯定的認識を助長する役割を担った。この背景には、第一次世界大戦後に悪化した本国の経済状況の立て直しのため、植民地を積極的に活用する必要があったことが挙げられる。フランスの国内的には、失業率が上昇し、労働者の保護が最優先課題となっていた。さまざまな法的規制によって、外国人の労働市場への参入が制限され、特定の職業に就くことが禁止され
元のページ ../index.html#74