教育評論第39巻第1号
73/160

67(2023年8月17日筆者撮影)フランスにおける旧植民地および移民へのまなざしの変化─国立移民史博物館の沿革から─写真2:フランス革命の1789年(左)、革命期の外国人(右)したアナカルシス・クローツ(Anacharsis Cloots, 1755-1794)などの革命期の外国人の事例が提示されている(写真2右)。これらによって、フランス革命期における国籍と市民権の概念や、外国人の帰化について考察させる内容になっている。第3の区分である、「1848年:移民、亡命者、入植者、被植民者」では、復古王政に対して1830年7月に勃発した市民革命の結果成立した七月王政期の状況が展示されている(1848年は七月王政が終焉を迎えた年)。立憲君主制、制限選挙制へと転換した七月王政期には、フランスにおける外国人の受け入れ体制が大きく変化した。何千人ものヨーロッパの政治亡命者がパリに到着し、1832年には「難民」に関する最初の法律が制定され、難民という政策上の区分が確立された。しかし1848年2月には、資産家を優遇する政治体制への反発から労働者や学生による更なる市民革命が起こり、七月王政は終焉を迎える。同年に成立した第二共和政では、思想家であるマルクス(Karl Marx, 1818-1883)等の著名人を亡命者として受け入れ、フランスへの帰化の条件を緩和したものの、政治体制の保守反動の結果、翌年には再度、帰化を制限するようになった。また同時期には、植民地39への移民も増加した。1851年には、人口調査で初めて外国人がカウントされるとともに、「フランスで生まれた外国人の、フランスで生まれた子(移民三世)」に対して、出生時に自動的にフランス国籍を付与する(成人後に外国籍の選択も可能)という二重の出生地主義が導入された。4番目の区分である「1889年:外国人から移民へ」は、第三共和制のもと、1889年6月26日に市民権法が制定されたことで上述の二重出生地主義の範囲が拡大された時期に着目している。この法令により、「フランスで生まれた外国人」にもフランス国籍が与えられるようになった一方、それまで選択可能であった外国籍の保有が認められなくなった。この背景として、フランス在住の外国人の両親が子どもの兵役回避のために子どものフランス国籍取得を拒否する事態を防ぐ目的や、アルジェリアで増加するヨーロッパ系外国人に対抗する目的があった。当時のフランスへの移民の大半はベルギー人とイタリア人の労働者であった。また19世紀終盤には、フランスがヨーロッパ最大の移民受け入れ国であると同時に、移民の通過地点としての役割を果たす送り出し国ともなった。さらに同時期は、世界的な経済危機のあおりでフランスにおける外国人排斥感情が高まり、外国人労働者の存在が問題視されるとともに、反ユダヤ主義が高揚した時期でもあった(写真3)。第5番目の区分である「1917年:第1次世界大戦から1920年代まで」では、第一次世界大戦の影響による外国人の環境の劇的な変化が述べられている。外国人が監視対象となり、敵国出身者は拘留もしくは即時出国させられた。イタリアやスペインなどの中立国出身者も例外ではなく、

元のページ  ../index.html#73

このブックを見る