2.国立移民史博物館と移民をめぐる状況移民史に特化した施設を設置する構想はかねてから存在していた。1991年には、歴史学者であるピエール・ミルザ(Pierre Milza)やジェラール・ノワリエル(Gérard Noiriel)、エミール・テミーム(Emile Temime)、社会学者であるドミニク・シゥナペ(Dominique Schnapper)、政治学者のパトリック・ヴェイユ(Patrick Weil)などの発案で「移民博物館協会」(l’Association pour un Musée de l’Immigration)が発足し、移民史博物館設立に向けたプロジェクトの中心的役割を担った。同協会はプロジェクトの国家的な後押しを提言したが、共和国連合のバラデュール首相や同じく共和国連合のシラク大統領の政権下において移民規制が強まり、当初は公的な承認を得ることはできなかった16。しかし1998年に社会党のリオネル・ジョスパン(Lionel Jospin, 1937-)が首相に就任すると、2001年にようやく、国家としてのプロジェクトの実施が公約された。先述の通り、2004年には、当時の首相ジャン=ピエール・ラファランの公式発表とともに国立移民史シテ設置計画が発足し、2007年の国立移民史シテ開館に至った。しかし開館に至るまでも、そして開館した後も、国立移民史博物館は、「移民」をどのように捉えるかという繊細な政治的問題と常に隣り合わせの立場に置かれ、移民を取り巻く政策的影響を大きく受けてきた。共和国連合とフランス民主連合などで結党した国民運動連合のニコラ・サルコジ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa, 1955-)が2007年に大統領に就任すると、移民の社会統合を管理し、移民の送り出し国との連帯を奨励するために、「移民 ・ 統合 ・ 国民アイデンティティ ・ 連帯発展省」(le ministère de l’Immigration, de l’intégration et de l’identité nationale et du développement solidaire)を創設、同年に移民法を改正した。サルコジの移民政策の主軸となったのが、いわゆる選択的移民政策である。例えば移民家族の呼び寄せに関して、移民本人のフランスでの滞在期間や経済状況、居住環境の規定水準が厳格化され、そして、移民家族に関しても、「受入・統合契約」(le Contrat d’accueil et d’intégration)を結ぶことが義務化された。これは、共和国の法律と価値観を尊重して、新入国者のための市民教育を受けることや、個人的な権利のため、またフランス国家のために語学研修を受けることを規定した、移民と国家との間で締結される契約である。この契約によって、フランスと共和国の価値観についての移民の知識の強化が図られた。他方で、技術や能力を有した移民を受け入れるためのビザである「能力と才能」による滞在許可証(la carte de séjour “compétences et talents”)が新設され、能力のある高度技術移民の増加も目指された。つまり、国立移民史シテの開館と時を同じくして政治主導者の交代によって移民政策が転換され、選択的ともとれる移民政策がとられるようになったのである。こうした移民政策を推進する移民 ・ 統合 ・ 国民アイデンティティ ・ 連帯発展省に対しては、移民史博物館の常設展示の内容を検証する歴史委員会が反対する意思を表明し、2007年5月18日、全12名の委員のうち8名がプロジェクトを辞任するに至った。辞任当時の彼らの声明によると、「移民史博物館の目的は、誰もが自分自身のものとすることができる共有の歴史に基づきながら未来を見据えるために、人々をひとつにすることであったのに対し、この省は、歴史が示しているような荒廃をもたらす分裂と分極化を生み出す恐れがある」というのがその理由である17。また、辞任した委員のひとりであるパトリック・ヴェイユは、メディアからのインタビューにおいて自身の辞任の理由を以下の通り述べている18。62早稲田教育評論 第 39 巻第1号
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