61フランスにおける旧植民地および移民へのまなざしの変化─国立移民史博物館の沿革から─développement des échanges interculturels au Musée des arts africains et océaniens)が発足し、関連活動団体と協力した企画展や青少年向けのワークショップが開催されるようになったことで、移民コミュニティ等との仲介的な役割を担うようになった8。その後同館は、1990年に、アフリカ・オセアニア国立美術館(le Musée national des Arts d’Afrique et d’Océanie)となったが、2003年、すべての所蔵品が現ケ・ブランリー美術館に移管され、同館自体は最終的に閉館となるという目まぐるしい変遷を遂げた。展示品を新たに収集し、国立移民史シテが開設されることになったのは、その4年後の2007年のことである。さらに5年後の2012年には、地下階の水族館とともに国営の公共施設であるポルト・ドレ宮として統合され9、国立移民史博物館へと改名した。旧植民地博物館を国立移民史シテとして利用することに関しては、計画当初から賛否が分かれていた。アール・デコ調の建造物であるポルト・ドレ宮の正面の外壁には彫刻家アルフレッド・ジャニオ(Alfred-Auguste Janniot, 1889-1969)による浮彫の装飾が施され、波をかき分けて大海原を進む巨大な帆船や、ゾウやサイなどの動物に対して弓や槍で戦う男性の姿などが巧緻な彫刻によって勇猛に表されるとともに、「フランスの植民地への貢献」が描写されている10。また建物内の大ホールの四方の壁の巨大なフレスコ画には、豊かな緑の中にたたずむ異国情緒あふれる女性や果物を収穫する黒人男性の姿なども美しく描かれている。いずれも、植民地化に際して必然的に生じる武力による制圧や抵抗といった陰惨な過程は排除されており、帝国主義のなかで理想化された植民地像のみを現代にまで伝えている。フランスの歴史学では、植民地の歴史と移民の歴史とを区別する傾向があるため 、旧植民地博物館で移民史博物館を開設することは、植民地化の歴史と移民の歴史との混同に繋がるのではないかという批判的な議論を招いた。また、移民史において植民地の経験が過度に強調されることになるのではないかという懸念も生じた。1999年の統計で、フランスの移民の出身地域別の内訳をみると、ヨーロッパからの移民が45.0%、アフリカが39.3%、アジアが12.7%、アメリカおよびオセアニアが合計で3.0%であった12。2022年になると、ヨーロッパとアフリカの割合が逆転し、ヨーロッパ出身者が33%、アフリカが48%、アジアが14%、アメリカおよびオセアニアが6%となる13。今日でこそアフリカ出身者の割合がヨーロッパ出身者を上回るものの、国立移民史シテの開設当時はフランスを訪れる移民の大半が、ポーランド、ベルギー、イタリアなど、歴史的にフランスの植民地支配とは無関係なヨーロッパ諸国の出身であった。美術史学者であるデラプラス(Andréa Delaplace)の国立移民史シテをめぐる研究によると14、歴史学における植民地史と、移民史との混同の懸念から、国立移民史シテの開設候補地として現代美術館ブルス・ド・コメルスや、大型展示会場であるシャイヨー宮などの様々な場所が検討されていたものの、最終的にはポルト・ドレ宮内の旧植民地博物館が選ばれた。その理由として、まず、ポルト・ドレ宮が歴史的建造物であり、芸術的な影響力を有していること、壮観で明快な建築様式であることが挙げられている。さらに、1931年の国際植民地博覧会におけるポルト・ドレ宮の役割から、フランスと他国との繋がりの歴史や、フランスが他文化に向けてきた視線の変遷を再考するきっかけとなるという理由もあったとされる15。つまり、建築物としての芸術的価値とともに、史跡としての学術的価値から国立移民史シテの開設場所として選定されたのである。
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