39フランスの前期中等教育段階における道徳・公民科授業・教材研究(1) ─「自由」をめぐって─に答えるには、こうした知識を活用し、思考し、議論しなければならない。高度に構造化された学習ノートの制作者が想定しているのは、自由についての基本的事項の〈知識〉をふまえたうえで、そこから導かれる論理必然的帰結としてはじめて、道徳的に妥当な行為が何かを〈判断する〉ことができるようになる、という道徳教育の学習・指導の筋道である。この点は、知識の教育(instruction)から切り離された「道徳性の育成」の枠組みのなかで、児童生徒の「心情」に訴え、「実践意欲と態度」を形成すること(そしてそれらと一体化した限りでの「判断力」を育むこと)を主眼におく日本の学校における道徳教育と比較するとき、きわだって異なった様相を示しているように思われる。おわりにフランスの道徳・公民科授業で用いられた教材は、なによりも客観的な歴史的事実、論理的に整合性をもった議論を通じて、健全な判断力を育成するべく、意図的に構造化されていた。これに対して、日本の道徳科で用いられる教材は、しばしば、「短い物語」の主人公に生徒たちが感情移入し、「道徳的に正しい行動」をとるべく、生徒たちの「心情」や「実践意欲と態度」にかかわる教育を施そうという意図をもって制作されている。理性、判断力、公正性に訴えるフランスの授業と、気持ち、共感、徳目(道徳的価値)といったものに訴える日本の授業は、きわだって対照的であるように思われる。このように著しく異なったアプローチをもった授業が、一年を通じて、さらには、学校教育全体を通じて、どのような違いとなって現れるのか、それを明らかにするためには、さらに継続的に調査、研究を積み重ねなければならない。残された課題も小さくない。たとえば、「自由」の概念は、今回観察できた授業で扱われた範囲を超えて、より大きな問題系を構成している。たしかに、根拠の確かでない、理にかなわない政治的、宗教的権威による軛から個人を解放することを是とする考え方は、西欧近代が打ち立てた人権思想のなかでも、基本となるとりわけ重要な礎である。しかし、自らの意思と責任において生存と幸福を追求する自由は、それだけでは人間を真に高貴な存在とすることはない。欲望の赴くままに快楽を追い求めるならば、人間は自らの情念の奴隷となってしまう。アイザィア・バーリンが試みたように(10)、消極的自由(拘束からの解放)のみならず、積極的自由(より高いものをめざして主体的に参画する意思)をもあわせて考える必要がある。しかし、今回とりあげた第4級の道徳・公民科授業で用いられた学習ノートの第一部で扱われた「自由」は、ほとんどもっぱら前者にかかわるものであった。別の教材で、あるいは、別の教科(たとえば、フランスの中等教育の総仕上げ、冠となる科目とされてきた哲学科)で後者の意味での自由は扱われるであろうか。扱われるのだとすれば、それは、今回検討された授業内容とどのように関連づけられうるであろうか。後日を期して稿を継ぎたい。〔付記〕本稿は、早稲田大学教育総合研究所プロジェクト研究「フランスの『道徳・公民科』授業に関する研究」(2024年度B-06、部会主任:坂倉裕治)、ならびに、日本学術振興会科学研究費基盤研究(B)「多文化共生社会における道徳教育に関する日仏比較研究」(課題番号23H00922、研究代表者:上原秀一)による研究成果の一部である。この場を借りて、全面的
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