教育評論第39巻第1号
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37フランスの前期中等教育段階における道徳・公民科授業・教材研究(1) ─「自由」をめぐって─掛けが、このポスターの「皮肉」には組み込まれている。さらに、ポスターの中央前景に位置づくメッセージは、明白な皮肉となっている。「フランスにおける奴隷制は終わっていない。あなたには、何もしない自由がある」という文章は、現代社会の闇に隠された新たな奴隷状態を無視すること、それに気づかないでいることそれ自体が、「自由」という共和国的価値をその足元において瓦解させる危機をはらむことを強く訴えている。なぜならば、〈私〉の自由が〈他者〉の自由の剥奪のもとに成立するものである場合、自由は、享受の普遍的平等を前提としなければならない〈権利〉としての資格を失ってしまうからである。「何もしない自由」は、正当化されざる、人道に反する「自由」(したがって、自由ならざる自由)であり、フランスが掲げる共和主義の理念としての自由、すなわち「平等、友愛、ライシテ」と並ぶ「自由」という共和国的価値とは相容れないのである。設問4において、「自由」の学習の眼目は明示的に、(活動1で扱われていたような)〈私(たち)の自由〉から〈他者の自由〉へと移動する。この視点の移動は、〈私(たち)の自由〉の享受が〈他者の自由〉の擁護なしには成立しないという、道徳的でもあれば法的でもある権利論上の論理を示している。それはまた、〈権利〉と〈義務〉を媒介する論理でもある。フランス共和国の市民である限り、自由への〈権利〉を享受することは、他者の自由を擁護する〈義務〉を負うことと切り離せないのである。第3課「様々な自由の獲得と擁護」で設定された、1時間分の学習活動と設問は以上となる。学習ノートの最後には、この課での学習全体をふりかえる「まとめ(Je retiens)」と題された欄が配置されており、この授業の学習内容の要点が記されている。まとめフランスのアイデンティティは、自由を擁護することを基盤としてうち立てられた。1789年の『人間と市民の権利宣言』は、その第1条から、人間は生まれながらに自由であるとはっきり述べている。しかし、様々な形の自由は、時間をかけて少しずつ、激しい闘いの末に、ようやく獲得されたのであった。たとえば、集会と結社の自由は、幾度にもわたって、認可されたり、禁止されたりした。というのも、その自由は危険であり、体制への異議申し立てや革命運動を助長するものと思われたからである。科学と技術の進歩にともなって、数々の新しい自由が確立された(情報処理及び自由に関する法律、インターネット上で忘れられる権利(le droit de l’oubli numérique)〔Web上の個人情報の削除を要求する権利〕)。いつでも必ず迫害されている他者たちがいるのだから、彼らは擁護されるべきである(現代の奴隷制)。誰かの自由が脅かされているとき、万人の自由が危うくされているのである。この欄を参照すれば、第3課の全体が、設問4に対する適切な解答に向けて学習・指導過程を方向づけようとする意図によって構造化されていたことが容易に理解できる。筆者らが観察した授業では触れられなかったが、「自由の獲得と擁護」という本課のタイトルの下には、「自由への個人の希求は、他人の自由を承認することを前提とする」という、この教材の「めあて」が明示

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