教育評論第39巻第1号
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140早稲田教育評論 第 39 巻第1号る。涙を流しながら小さい手をあわせ、東に向かって伊勢大神宮に御暇を申し、西方浄土の来迎にあづからむと西に向かって念仏をとなえる幼帝。やがて二位殿は、浪の下にも都のさぶらふぞと慰めて、幼帝と千尋の海の底へ入っていく。哀憐の落涙をさそわずにはおかない場面である。二位殿にとって、神璽と宝剣は浪の下の都に欠くあたわざる神器であった。帝の入水を目にして、建礼門院は硯・焼石(温石)を左右の懐に入れて海へ入ったものの、源氏の渡辺党の者によって髪を熊手にかけてひきあげられてしまう。女院と知れて急ぎ御座所の舟に移される。重衡の妻(大納言の佐殿)にいたっては、神器八咫鏡の入った唐櫃をもって海に入らんとするも、袴の裾を船端に射つけられて倒れているところを、源氏の兵に救われる。入水をめぐる人間模様は女人に限らず、さまざまな死生のドラマが繰り広げられたが、その滅亡のさまは、中国の宋王朝の滅亡にまた同様の悲痛な光景が望見された。蒙古の台頭によって、咸淳10年(1274)南宋の第六代度宗を継いだ第七代恭帝(母は全氏)はわずか四歳であり、徳祐2年(1276)には元軍の臨安侵攻によって俘虜の身となって北へ連行された。同年5月、福州で第八代端宗(恭帝の兄、益王。母は楊氏。)が即位したが、景炎3年(1278)元軍の迫るところとなって海中に逃れ、石岡州(広東省呉川県の南海中の小島)に死した。ここに最後の第九代皇帝となる衛王(趙昺、恭帝の弟。母は兪氏。幼主、祥興帝、少帝)が即位する。この幼帝を戴く宋軍は、蒙古の追撃によって徐々にマカオの西方の厓山(広東省新会県の南)に追いつめられていく。この厓山の海で、祥興2年(1279年、元の年号では至元16年)2月6日、宋軍は元に仕えた張弘範の率いる二万余の大軍に攻撃され、勇将張世傑・陸秀夫らが奮戦するも、滅亡の最期の時を迎える。『宋史』巻47「瀛国公本紀(二王附)」の伝えるところによれば、陸秀夫はこの危機を脱することはならずと剣をかざして妻子を海中に駆りたて、かくて幼帝を背負い、海中に飛び込む。『新会県志』巻13に引く龔開陸「君実(陸秀夫の字)伝」には、匹練をもって一体の如くに束ね、黄金の璽を腰間にたれて投水したという。『宋史紀事本末』巻108「二王之立」には、陸秀夫は死に際して、幼帝にいったという。国事 此に至れば、陛下 当に国の為に死すべし。徳祐皇帝(兄の恭帝)の辱しめらるること已に甚だしければ、陛下 再び辱しめらるるべからず。犯すべからざる国家の尊厳を重んじての潔い決断といえる。幼帝は、安徳帝に同じく八歳。後宮ならびに諸臣には幼帝の最期に殉ずる者が少なくなく、十余万人の屍が海に漂ったという。南北両宋三百二十年の治世が潰えるが、幼帝の死を知った楊太后の所行もまた潔く、我 死を忍んで艱関 此に至れるは、正に趙氏一塊の肉のためのみ。今は望み無し。「趙氏一塊の肉」は、趙匡胤建国の宋朝の皇統を意味する。楊太后は慟哭して、後を追って投水したという。彼女の存在と言動は、平家の滅亡における二位殿のそれに比することもできる。平家の滅亡から約一世紀を隔てた隣邦中国での相似た亡国哀話である。日中間の相似近接する歴史的事象への関心は一方ならず、その二事一類を対句化する幼学書の類も世に行われた。宝永7年(1710)の序のある木下公定の『桑華蒙求』には「安徳沈海」「帝昺没溟」の標題を一対とし、天保六年(1835)に刊行された虞淵方外史『和漢駢事』巻下「襍類」には「壇浦 厓山」と

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