し「古典探究」教科書の漢文教材をめぐってゆくに之さしはさかけおちいづ時子に問ひて曰く、「安こうらんとするなり」と。遂に与に倶に海に投じて死す。皇太后継いで投ず。東兵其の髪を鉤139逍遙が生まれたのは、明治維新前夜の慶応3年(1867)2月11日。その年は、多岐多彩な数多くの人材を輩出した当たり年でもあった。正岡子規、夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉、齋藤緑雨らに同じくこの年に生を受け、明治17年(1884)9月に合格した東京大学予備門では、正岡子規や夏目漱石と同級となった。同23年(1890)9月に帝国大学文科大学漢文学科に進学し、同27年(1894)7月に同科第一回卒業生となり、さらに研究科に進み「支那文学史」を草せんことを期しながら、同年11月16日に急性肺炎のため不帰の客となった。前途有為な慶応3年生まれの俊才でありながら大成の日を迎えることがなかっただけに、その遺された詩文には愛惜の思いが喚起される。『逍遙遺稿』は、この二十七歳で夭折した中野逍遙の学友である宮本正貫・小柳司気太の編次によって、「人員三百四十五名」から寄せられた「合計金壹百九拾五円八拾九銭」の義捐に基づいて一周忌の命日に発行(非売品、五百部)された漢詩文集(正・外二編)である。病弱であった逍遙は自らを、中国の辞賦文学で名高く、消渇疾を病んだことでも知られる司馬相如に擬え、彼が「琴心」を以て挑んで「私い。『逍遙遺稿』の詩篇には、相如と文君の史伝や故事による詩句が頻出する。「君」をめぐる情念の表出を探るとき、相如・文君の典故に基づく表現の世界に一歩を踏み出すことになろう。恋愛の感情をストレートに表出した詩篇だけに、訳詩の作成など、さまざまな展開が可能な多様性に富んだ教材と考える(4)。◎ 幼帝入水余話明治書院の『精選古典探究 漢文編』の「後編」「5 日本人と漢詩文」は、詩篇六首と文章二篇で構成されるが、その後者の「壇ノ浦」は『日本外史』によるものである。「壇ノ浦」は、源平合戦ゆかりの地であり、この地に逃れた平家は最後の戦を源氏に挑むが、劣勢を取り戻すことはできず、最期の時を迎え、安徳帝は二位の尼(平時子)に抱かれて海に沈む。『日本外史』(頼山陽)の教材にいう。時子乃抱帝、相約以帯、挟剣璽、出立船首。帝時八歳。問時子曰、「安之也。」時子曰、「虜集矢於御船。故将他徙也。」遂与倶投海死。皇太后継投。東兵鉤其髪獲之。行盛・有盛聞之、皆力戦死。(時子乃ち帝を抱き、相約するに帯を以てし、剣璽を挟て之を獲たり。行盛・有盛 之を聞き、皆力戦して死す。)『平家物語』「先帝身投」によれば、平家の舟に乗りうつりくる源氏の将兵の攻勢の中、安徳帝の祖母である二位殿(二位の尼)は、「にぶ色の二衣うちかづき、練袴のそばたかくはさみ、神璽をわきにはさみ、宝剣を腰にさし」、主上をいだいて船端に歩みでる。尼ぜ、われをばいづちへぐしてゆかむとするぞと戸惑い顔の幼帝。二位殿が涙をおさえながらに「君はいまだしろしめされさぶらはずや、先世の十善戒行の御力によツて、いま万乗の主と生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ」と語りだし、「極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」と言いおさめくや」と。時子曰く、「虜 矢を御船に集む。故に将に他に徙奔」に及んだ卓文君との相思相愛を念じてやまなみ、出でて船首に立つ。帝時に八歳。
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