教育評論第39巻第1号
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むねつか思君我容瘁(君を思ひて我が容瘁うれ思君我心悄(君を思ひて我が心悄138早稲田教育評論 第 39 巻第1号いま古典との関わりのあることをのみ書いてみたが、「楓橋夜泊」詩は、「言語文化」や「古典探究」の趣旨からも多くの学びの話題を秘めている。現在の教材採用の情況の中では、「古典探究」の教材としての多様な展開が期待される。(3)◎ 中野逍遙と教科書教材「言語文化」の「日本漢文」教材として、第一学習社『高等学校 言語文化』・『高等学校 精選言語文化』・『高等学校 標準言語文化』・『新編言語文化』は「漢文学編」の「漢詩」ないし「漢詩の鑑賞」に、中野逍遙「道情七首」の第一首(『逍遙遺稿』外編所載)を採用する。この詩篇は、逍遙の郷里宇和島の和霊公園の「中野逍遙漢詩碑」に刻されることも知られる。擲我百年命(我が百年の命を擲ち)換君一片情(君の一片の情に換ふ)仙階人不見(仙階 人見ず)唯聴玉琴声(唯だ聴く 玉琴の声)詠作の時期は、逍遙の逝去の一年ほど前のことと見られる。幼少から病弱の質にあった逍遙は、五、六歳から父に命ぜられて勉学に励んだ。起句の「百年命」は、逍遙の病弱にして短命であった境涯を想えば、ひときわ哀切さが漂う語ともなる。逍遙の詩篇には事実として少なからざる「百年」の語を見る。中野逍遙の詩篇は、今次の「言語文化」教科書の教材採用が初めてではなく、旧『高等学校学習指導要領』下にあって、桐原書店『探究古典B』の「日本の漢詩」に「思君十首」の第一首と第二首を教材としており、今次の改訂においても、同じく桐原書店の『探究 古典探究 漢文編』「4 日本の漢文」が「思君十首」の第一首と第二首をセットで継承したのである。思君我心傷(君を思ひて我が心傷み)中夜坐松蔭(中夜 松蔭に坐せば)露華多似涙(露華多く涙に似る)第一首の起・承句にいう「我が心傷み」「我が容瘁る」とは、「思君」という行為の結果である。思いは晴れること無く、夜露こそ涙に似たる存在に他ならない。「思君」の「君」とは、「道情七首」の第一首に詠じられた「君」に通底する。この「君」こそ逍遙にとって不変の愛しの君の存在に他ならない。思君我腸裂(君を思ひて我が腸裂く)昨夜涕涙流(昨夜 涕涙流る)今朝尽成血(今朝 尽く血と成る)第二首で「思君」の行為のもたらす「我が心悄ひ」「我が腸裂く」という我が心昨晩流したその涕涙が、今朝はすべて血と成ると詠じる。その血の涙こそ、君を深く思うも成就せざる苦悶を象徴するものでもある。この二首セットの教材は、一途な恋情を表出する詠作として学習者の心に訴え共感を呼ぶものでもあろう。る)ひ)腸の悲痛は、

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