教育評論第39巻第1号
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ほととぎすおち規 月落からす 烏とり 鳥137「古典探究」教科書の漢文教材をめぐって導要領』下の共通必履修科目「国語総合」では、桐原書店・数研出版の教科書に採用され、選択科目の「古典B」においては、三省堂書店・教育出版・東京書籍・筑摩書房の4社が採用していた。今次改訂では、選択科目である「古典探究」においては、文英堂・筑摩書房の2社に、全員履修の共通必履修科目「言語文化」の教科書においては桐原書店のみに、いずれも半減していることには、唐詩の中でもとりわけ人口に膾炙する詩篇であるだけに特別な思いが去来する。月落烏啼霜満天(月落ち烏啼きて霜 天に満つ)江楓漁火対愁眠(江楓 漁火 愁眠に対す)姑蘇城外寒山寺(姑蘇 城外 寒山寺)夜半鐘声到客船(夜半の鐘声 客船に到る)この「楓橋夜泊」詩は、蘇州の寒山寺の参観・観光と相俟って、日本国内において最も拓本が流布する詩篇といえるかも知れない。といって、その拓本の文字は張継の直筆になるものではないが、その詩篇が人口に膾炙するだけでなく、日本の風土にあっても、関東では奥多摩の地に無住ながら寒山寺が建立される。関西では箕面市にまた寒山寺が所在し、その由来は古く江戸の寛永11年(1634)に滋賀県大津の膳所藩主となった石川忠総が瑞南禅師のために創建したことに始まる。ところが、慶安3年(1650)に石川氏の転封・領地替えにともない大阪城下の西寺町に移転となり、さらに昭和43年(1968)、大阪万国博覧会の都市計画に際して、箕面市に移転したという変転の歴史を重ねたことが知られる。「寒山寺」の命名は、琵琶湖と紅葉の風趣が「楓橋夜泊」の詩趣によく似ていたことに由来するといい、移転後の西寺町の寒山寺の鐘は、元禄16年(1703)11月22日に成る。名鐘として知られ、近松門左衛門の『曽根崎心中』の「道行」の中で、お初徳兵衛が「あれ数ふれば、暁の、七つの鐘が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め……」と描かれるのも、この寒山寺の鐘であったと紹介されることが多いが、「曽根崎天神の森の心中事件は元禄16年(1703)4月7日、上演は5月7日で、鐘の銘は11月なので、まだ寒山寺の鐘は響かない。」とは、柴田光彦「山田寒山と寒山寺鐘をめぐって」(2)の「七、大阪寒山寺の鐘」における時間のアヤを突いた巧みな考説がある。また、詩篇の「夜半の鐘声」に関していえば、近世俳諧の与謝蕪村の師匠である早野巴人は、下野国那須郡烏山の出身で、「巴人」の号は、巴州地方の人の意から転じて、鄙俗な者、野夫、いなか者を意味する。早くに江戸に出て自らの身をこの語に擬えたともいえるが、其角・嵐雪の教えを受け、宝永・正徳のころには江戸俳諧の名士として知られ、やがて江戸を離れて上洛。留まること凡そ十年、宋屋・几圭等の有力な門人も得たが、老年になって望郷の念抑え難く、元文2年(1737)4月末に江戸に戻り、日本橋の「時の鐘」(石町)の近くに居を定めて「夜半亭」と号した。この号の三文字もまた「楓橋夜泊」詩の「夜半鐘声」に由来する。しかも蕪村は夜半亭で内弟子として起居をともにし、巴人の歿後には夜半亭二世を継ぎ、蕪村の歿後には高井几董が三世を継ぐ。夜半亭一世こと早野巴人の十三回忌となる宝暦5年(1757)に砂岡雁宕ら門人が編じた俳諧追善集『夜半亭発句帖』(「夏之部」「ほととぎす」)には、次の句を収める。 子この夜半亭巴人の一句は、とりわけ「楓橋夜泊」詩の俳諧的受容の洒脱にして絶妙な風韻を伝えて愉快な響きを湛える詠作といえる。の声

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