教育評論第39巻第1号
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「論語」を題材として「言語文化」から「古典探究」へ─江戸期の日本漢文を活用した学びの分析と提言─ 95ことなく繰り返し発生することを示した)始終、いつも、常に」(『白水社 中国語辞典』(伊地知20 『精選古典探究 漢文篇』(嶋中道則ほか著、東京書籍、2024年2月発行)の57ページ。21 中国哲学者である山下龍二(1977)は、「仁斎は、「性の自然にしたがうのが道だ」という朱熹の考えとは多少ことなつており、四端 がこころに具足していうのが性善で、その性善の故に道や教を受容することができる、とする。すなわち、朱熹は道よりも性を基本とし、仁斎は性よりも道を基本とする、ともいえるが、いずれも性善説である。」 と述べている。 (「徂徠『論語徴』について(一)」(山下龍二、「名古屋大学文学部研究論集(哲学)」24巻、1977年)の57ページ。https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiBltKX_ruIAxVhsFYBHdGSFacQFnoECC4QAQ&url=https%3A%2F%2Fnagoya.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F8278%2Ffiles%2Fjouflp_24_57.pdf&usg=AOvVaw3BmKjd-zMqjH8WbvLTFCnl&opi=89978449 最終閲覧日:2024年9月9日 また、朱子学と仁斎の「性」に対する主張の違いについて子安宣邦は、朱子学では「性」を「心の本体」としているのに対して、仁斎は「人間の心のもち方、動き方に共通する性質である。そして「四端の心」こそ人間であることを証す心の動きであり、「性」にほかならないのである」と述べている。『仁斎学講義─『論語字義』を読む』(子安宣邦、ぺりかん社、2015年5月)の52ページ。22 原文は「有故有義有所指摘。皆徴諸古言。故合命之曰論語徴」。書き下し文は、「故(※小川環注:訓詁のことであろう )有り、義有り、指摘する所有り、皆 諸を古言に徴す。故に合して之を命じて『論語徴』と曰ふ」。なお、書き下し文は「ワイド版東洋文庫575『論語徴1』」(小川珠樹訳注、平凡社、2009年9月)を参照し、注は同書の小川珠樹の注に従った。23 本論文で扱う『論語徴』の原文は、『論語徴』(物茂卿著、[江戸]大和屋孫兵衛、元文2(1737)年。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」)に依る。24 書き下し文は、『論語徴1』(小川環樹訳注、平凡社、2009年9月)の64〜65ページを参照した。25 『論語集注1』(土田健次郎、平凡社、2013年10月)の155ページを参照した。26 『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社、1990年6月)には、「時時」は「常常」であるとして、『史記』などの用例を示す。「常常」は現代中国語で「いつも、常に」の意。その他、一般的な漢語辞典では「①いつも、たびたび ②ときおり、たまに、ときどき」(『全訳漢辞海』第4版(戸川芳郎監修、佐藤進・濱口富士雄編、三省堂))、現代中国語辞典では、「①(短い時代内に動作・行為が何度となく発生することを示した)しきりに、しばしば、ひっきりなしに ②(動作・行為が途絶える善継、白水社))などがある。27 『全譯 論語集解 上巻』(渡邉義浩主編、汲古書院、2020年5月)の9〜10ページを参照した。28 『論語集注』(簡野道明著、明治書院、1966年9月修正76版)の1ページ。29 朱註に「謝氏─名良佐字顕堂、上蔡人、程門高弟。〈謝氏─名は良佐、字は顕堂、上蔡の人である〉」とある。30 朱註に「坐如尸・立如齊─出禮、曲禮篇〈坐如尸・立如齊─出典は、『禮記』曲禮篇である」とある。同書同ページ。新釈漢文大系『礼記』(竹内照夫著、明治書院、1971年4月)の語釈よると、「「尸」父祖の祭のとき、父祖の代理に選ばれ正客の一に座る人、かたしろ(霊代)。「斎」斎戒。祭礼の主人役をつとめる人が、あらかじめ一定期間日常生活から遠ざかって心身を清浄にすること。ここの文では、斉戒中の人のように慎重勤厳である、という形容に用いた。」(同書13ページ)。「その座にあるときは、尸(かたしろ)のように行儀よく、立ったときは、あたかも斉戒中の人のように厳かである」と通釈する。(同書同ページ)。31 『新釈漢文大系 礼記(上)』(竹内照夫著、明治書院、1971年)の208〜209ページ。

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