教育評論第38巻第1号
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72覇権主義的な主張を行うことを企図しているわけではない。しかし例えば、かつて日本帝国が植民地とした台湾や朝鮮において、どのような統治が行われたかということについての教科書の記述は、「内地」の統治方法と比して極めて少ない。一方で北海道や沖縄については、「日本」の支配下になかった時期についても言及されている。この記述方針の不統一にこそ、「日本史」という科目の限界が顕れており、授業を行うにあたってはそのことを意識しておくべきであると考える。9 [岩下 2016]10 「離島」という用語は、1953年の離島振興法の制定以後に一般化した言葉である。また、「離島」には明確な定義があるわけではなく、離島振興法の離島指定の基準も客観的なものではない[宮内 2006]。そのため、振興離島に指定されていない小豆島は法的には「離島」ではない、という言い方もできてしまうなど、「離島」は使用にあたって注意を要する用語である。しかし、一般的に使われている語であり、かつすべてに何らかの説明を加えることも煩雑であるため、本稿では現代日本の行政用語として使用する場合には、括弧を付さずに離島の語を用いることとする。11 [佐藤 2009]12 離島振興法の制定にあたって、民俗学者の宮本常一によるロビー活動も大きく寄与した。宮本は立法と同時に離島の自治体などが設立した全国離島振興協議会の事務局長を1959年まで務め、1970年からは政府の離島振興対策審議会にも学識経験者として参加した[門田 2023]。13 門田岳久によれば、島が「離島化」するのは、鉄道が敷かれて都市が交通の中心となることで周辺が生まれ、島が周辺とされることによるものである。そして離島振興法で「後進性の除去」がうたわれるのは、島を資本主義に順応できるようにするために足りないものを補完していくべきとする宮本常一の進歩主義的な開発論が影響しているとする[門田 2023]。14 国民皆保険制度は1961年に実現し、さらに70歳以上の医療費が無料となった1973年は「福祉元年」といわれる。こうした社会情勢の中で離島においても医療の確保が目指されたと考えられる。15 [佐藤 2009]16 [佐藤 2009]17 日本は1996年に、200海里の排他的経済水域について定める国連海洋法条約の締結国となった。18 この時の改正では活性化交付金の創設など、ソフト支援施策が大幅に拡充された。これは、離島が定住者のいる有人島であり続けることが管理していく上で重要であり、ひいては国家領域・経済水域の保全につながるという発想によると考えられる。このような離島における定住についての政策上の認識について、自由民主党の離島振興特別委員長であった谷川弥一は次のように振り返る。     いまから十数年前、私が長崎県議だった頃、国のある役所を要望で訪ねた時に「無理して離島に住んでもらわんでいいよ」と言われたことがあります。当時は、それが離島に対する考え方でした。その後、排他的経済水域など海洋の重要性に意識が向きはじめ、国境と島を無人化してはいけない、という流れになってきました[谷川 2016]。  「離島」をめぐるこうした認識の変化が、後の有人国境離島法に帰結することになる。19 [大野・中村 2012]20 [大野・中村 2012]21 2003年改正の離島振興法。22 [打越 2012]23 改正離島振興法の成立は2012年6月20日。24 2003年からの離島振興法では、それまで国が作成するとされてきた離島振興計画のあり方を改め、国は「離島振興基本方針」を示すにとどめ、その方針にもとづき、市町村が計画案を作成して都

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