注1 大坵嶼、小坵嶼など3つの島嶼からなる烏坵郷は金門県が管轄するが、金門からは120km程離れはわずか数kmの距離であり、金門と厦門を橋で結ぶことを求める声も強いという(【写真8】)。しかしこうした金門の人々の言動は「演じている」だけであると、金門での現地調査中にインタビューに応じてくださった金門県議員のX氏が語っていたのが印象的である。すなわち、金門の人々は台湾に対しての顔と、大陸に対しての顔を使い分けており、自分たちにとってより有利な条件を引き出すために、相手に合わせて「演じている」のだという。これは、中世に対馬の島民たちが日本列島と朝鮮半島の中央政府に対してとった態度を彷彿とさせる。ある意味ではこれこそが、《国境離島》の共通点なのではないか。島民の視点に立ちながら島嶼の調査を続けていく中で、どのように「演じている」かを見極められるようになっていけたらと思う。ており、金門との間を直接結ぶ交通手段もない。2 植民地支配は受けなかったものの、アジア・太平洋戦争中に金門や烏坵は日本軍の占領を受けた。馬祖群島は占領はされなかったものの馬祖海域は帝国海軍による管制を受け、また時折日本軍が上陸することもあったという[山本・胡 2018]。3 1949年10月1月に中華人民共和国の成立が宣言された直後の同年10月25日に中国人民解放軍が金門島へと上陸したが、中華民国国軍はこれを古寧頭戦役で退けた。4 [川島 2017]5 [アンダーソン 2007]6 何欣潔と李易安は著書『断裂的海』(聯経出版公司、2022)で、戦争と平和の「政治的境界線」に置かれた金門・馬祖について論じているが、本書の副題は「金門、馬祖 従国共前線到台湾偶然的共同体」であり、金門・馬祖・台湾が一つの共同体をなす現状を「偶然」として捉えている。7 [川島 2017]8 言うまでもなく、アジアの諸地域の歴史を「日本史」として教えるべきであるという帝国主義的・【写真8】小金門から廈門のビル群をのぞむ8471
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