教育評論第38巻第1号
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されている。五島列島は、遣唐使の航路が8世紀に北路から南路へと変更になると、日本を出て中国江南へと向かう船が最後に寄港する地となった。また9世紀になると、唐や新羅の商人が来航して現地の産物を採取したり、香料のようなものを持ち込んで交易を行う状況となり、在原行平によって値嘉嶋という行政区画の設置が建議されるほどであった61。当時の五島列島について戸田芳美は「浦や泊には、唐人・新羅人も来住し、島民や本土からの流入者とともに、一種の開放的・国際的な居留地や業界を形成していたのではないかという想定62」をしている。中世に五島列島は、倭寇の拠点となるとともに、日明貿易でも栄え、明の商人も来航していた。しかし幕藩体制下では対外交流上の機能は失われた。五島列島へは多くの潜伏キリシタンが移り住んだものの、近代に「信徒発見」がなされたように、近世の間は対外交流は行われなかったのである。現在、外国と直接結ぶ航路はなく、2019年の統計で外国人宿泊客実数は2,531人と対馬には遠く及ばない。五島列島も壱岐と同様に、かつては対外通交上の役割を担う「国境地域」の島嶼であったが、現在の対外交流は限定的なものとなっている。日本列島の文化である縄文文化が沖縄諸島まで伝わったのに対して、石垣島や竹富島、西表島、波照間島、与那国島などからなる八重山諸島へ縄文文化は到達しなかった。その後、沖縄が続縄文時代を迎えても、八重山は沖縄とは別の南方系の文化圏を形成していた。沖縄では12世紀頃、北方からの移住者の影響で農耕文化と鉄器文化が広がり、グスク時代を迎える。この頃、沖縄・宮古・八重山は歴史的に初めて共通の文化を持つに至った63。沖縄では按司どうしの争いの中で山北・中山・山南の三つの勢力が成長し、三山が鼎立した。三山は互いに抗争したが、1429年に中山王尚巴志が三山を統一し、琉球王国が成立した。琉球王国はさらに、奄美や先島64へも支配領域を広げていった。15世紀の八重山は群雄割拠の時代であり、オヤケアカハチ、長田大主、仲間満慶山などが勢力を争い、琉球王国はこれに介入する形で1500年にオヤケアカハチの乱に勝利し、以後、先島は琉球王国の支配下におかれることになった65。すなわち、北方からの人口流入に刺激されて沖縄や八重山は共通の文化を持つようになり、また政治社会が形成されたが、その延長上で成立した琉球王国によって八重山は支配されることになったのである。琉球王国から苛烈な支配を受けたこともあって、八重山の人々の沖縄への意識は複雑なものであり66、現代でもそれが政治的志向性の違いなどの形で表れている67。また、琉球王国は中国の冊封下で発展したため、沖縄では大陸との交流が活発であるが、八重山では大陸よりも距離が近い台湾との関係が重視されてきた。八重山には台湾からのパイナップル移民も多く居住するなど、台湾との間の往来も活発で、日本帝国が台湾を植民地化した際には八重山から台北に就職する人も多く存在したという68。防衛に関しては、先島は沖縄と異なり自衛隊基地がおかれてこなかった。しかし「台湾有事」への警戒などが取り沙汰される中で、2010年に策定された「防衛大綱」と「中期防衛力整備計画」において南西諸島の防衛力を強化していく方針が示され、2016年に与那国駐屯地、2019年に66④八重山

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