教育評論第38巻第1号
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対馬と九州島との間に位置する壱岐は、朝鮮半島−対馬−壱岐−東松浦半島という古来からの対外通交経路上にあり56、対馬と同様に外交使節が往来する島であった。「魏志」倭人伝には対馬と同じく壱岐の人々も「南北市糴」していたと記されている。また一支国の王都とされる原の■遺跡57からは多様な外来系土器が出土し、長期間にわたって朝鮮半島や中国大陸との間で交易が行われていたことが分かっている。こうした壱岐の対外通交上の重要性により、古代国家は壱岐に対馬と同様に「嶋」という行政区画を設置し、西海道諸国からの財政的な支援によって「国」に準ずる行政区画として維持した58。壱岐は文永・弘安の役でのモンゴル軍の襲来によって壊滅的な打撃を被り、その後は松浦党が移り住み、倭寇の拠点となった。近世には平戸藩領となったが、幕府による貿易・通交統制によって博多が国際貿易港ではなくなったことで、壱岐の対外交流上の直接的な機能は失われた。近代には対馬と同じく砲台が築かれ、対馬海峡の防衛において一定の役割を果たしたが、日本帝国の植民地となった朝鮮と約50kmの距離で直接向かい合う対馬とは異なり、半島との間の人の往来は限定的であった。現在、壱岐には博多と対馬を結ぶフェリーやジェットフォイルが途中で寄港するが、博多からフェリーで2時間、ジェットフォイルなら1時間程で着くこともあり、壱岐は対馬と比べて博多からの日帰り客の数が多い。しかし、壱岐を訪れる韓国人観光客の数は極めて少数であり、日韓関係の悪化やコロナ禍の影響が出る以前の2019年の統計59によれば、外国人の宿泊客実数は対馬が295,922人だったのに対して、壱岐は1,798人であった。壱岐は、かつて対外通交上の役割を担う「国境地域」の島嶼であったが、直接韓国から渡ることができない60こともあり、現在の対外交流は限定的である。古代の肥前国松浦郡には、庇羅郷と値嘉郷があり、前者は平戸島を、後者は五島列島を指すと港国際ターミナル5565②壱岐③五島列島【写真2】 韓国との航路が閉ざされて利用者がいなくなった比田勝

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