教育評論第38巻第1号
70/208

「国境地域」に所在していることが対馬の社会を規定するものであったということを表している。明治維新と廃藩置県により、宗氏は新政府から対朝鮮の外交権を奪われた。釜山における対馬藩の出先機関であった倭館も接収され、朝鮮との外交が東京の外務省によって担われるようになったことで、対馬は地理的な「国境」ではあるものの、列島と半島の交流の〈最前線〉ではなくなった。しかし、日清戦争、日露戦争、アジア・太平洋戦争と、近代の日本帝国が対外戦争を重ねる中で、戦略的に重要な位置を占める対馬では島内各所に砲台が設置され、島全体が要塞化されていった。戦後、砲台は米軍によって武装解除されたが、現在でも対馬には航空自衛隊のレーダーサイトなどがおかれ、国防の〈最前線〉となっている。対馬の現状として特筆すべきなのは、多くの韓国人観光客が訪れるということである。2000年に対馬と韓国との間にフェリーの定期航路が開設されて以降、韓国からの観光客が増え続け、2018年には年間約40万人もの韓国人観光客が訪れる状況になった(【写真1】)。このことは人口減少に喘ぎ、公共事業に依存する過疎の島に多大なる経済的恩恵をもたらした。一部の島民は土産物屋やレンタカー業、飲食店など韓国人観光客相手の商売を始め、また雇用の機会を得るために島外から移住して事業を始める人も少なくなかった52。一方で対馬は日韓の文化摩擦の〈最前線〉ともなり、一部の飲食店や宿泊施設、神社などが韓国人観光客の受け入れを事実上拒否するなど、島の社会にも大きな影響を及ぼした。そして2019年夏以降の日韓関係の悪化を受けて韓国からの来島者が激減した上、2020年には新型コロナ・ウイルス感染症の蔓延によって韓国との航路は閉じられ(【写真2】)、島の経済は大打撃を受けた。比田勝(対馬)−釜山航路は2023年2月に週末に限り再開され、その後運行本数を増やし、6月以降は2社が毎日運航するようになった53。コロナ禍によって韓国人観光客の来島がなくなっていた間、対馬の観光は日本人観光客の増加や客単価の上昇など大きく変化したが、釜山航路の復活を機に、コロナ禍以前にオーバー・ツーリズムともいえる状況に陥っていた韓国人観光客の受け入れを今後どのように行っていくか、対馬は新たな局面を迎えている。以上のように、対馬は古代から現代に至るまで日本列島と朝鮮半島の狭間に位置するという地理的条件に規定されて歴史が展開し、地域社会が形づくられてきた。64【写真1】韓国人観光客で溢れる上対馬の比田勝港国際ターミナル54

元のページ  ../index.html#70

このブックを見る