教育評論第38巻第1号
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本章では、東アジア海域において複数の国家の狭間となる地域(「国境地域」)に所在するいくつかの島嶼について、それらの地理的状況や歴史・文化・社会・対外関係、さらには現状を整理していく。一方で対馬は、9世紀にはしばしば「新羅海賊」からの襲撃を受け44、1059年の刀伊の入寇では女真族から襲撃された。さらに1274年の文永の役ではモンゴル軍が最初に上陸する地となり、多数の死者を出した。〈最前線〉であるが故に〈対立〉の矢面となり、島が蹂躙されることもあったのである。国家間の交流のみならず、対馬では古代から国家の枠組みを超えた人々の活動が活発であり45、中世には「境界をまたぐ人びと」が行き交い、倭寇の拠点ともなっていたために1419年には応永の外寇を招くことにもなった46。行政上の位置付けとしては、「魏志」倭人伝で邪馬台国連合を構成する国の一つとして対馬が描かれるなど、弥生時代にはすでに日本列島の政治勢力との関係が深かった。7世紀半ばには、白村江の戦いなどを機に国家領域の概念が形成され、「日本」の「国境」として位置づけられるようになった47。8世紀には「嶋」という行政区画がおかれ、経済的な自立が難しいにもかかわらず令制国に準ずる扱いを受ける48など、《辺境島嶼国》として古代国家から特殊な支配を受けた49。対馬の社会に大きな影響を及ぼしてきたのは、地形によって宿命づけられた経済的条件である。「魏志」倭人伝に「土地山険、多二深林一、道路如二禽鹿径一。有二千余戸一、無二良田一、食二海物一自活、乗レ船南北市糴」と書かれた通り対馬は、山林が島の面積の9割を占めており、耕地が少なく、島内だけで自活していくことは困難である。そのため、弥生時代の人々が「南北市糴」していたように、この島の人々は日本列島や朝鮮半島との交易によって生計を立てており、特に中世以降は朝鮮半島への経済的依存を強めていった。こうした中で中世に宗氏は、日本の幕府から守護に任じられる一方で、朝鮮からは渡海のための身分証明書である文引の発行権を与えられ、日本から朝鮮への入国管理を担った。半島との通交や交易を統制する権限を得たことで、島内の他の勢力に対して優位に立った宗氏は島主としての立場を確立していった50。近世に宗氏は徳川将軍家と主従関係を結ぶが、幕藩体制の中で対朝鮮外交と朝鮮貿易を独占的に担い、貿易の利益を分与することによって家臣団統制を行った51。このように中世・近世に対馬や宗氏は、日本と朝鮮の双方と関係を持つことで自らの立場を維持した。朝鮮半島に経済的に依存していたが故に、半島との通交権を獲得することで宗氏が領主権力を確立したということは、すなわち633.東アジア海域における「国境地域」の島嶼①対馬「国境の島」と呼ばれる対馬は、南北約82km、東西約18kmの細長い島であり、釜山から約49.5km、博多からは約138kmの距離に位置する。九州島よりも朝鮮半島の方が近いという地理的特性から、古来より日本列島と朝鮮半島を結ぶ通交経路であった対馬には、古代から近世にかけて魏使、新羅使・遣新羅使、唐使・遣唐使、朝鮮通信使などの外交使節が行き来し、交流の〈最前線〉となってきた。

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