の立場から金門や馬祖について論じるだけでは不十分である。帰属する「国家」がどこかということではなく、島々やそこに生きる人々と向き合い、彼等の視点から「国家」について考える必要がある。ここで、日本における島嶼に対する認識や関心の所在について考えてみたい。領土問題などをきっかけとして「離島」への関心が高まり、近年は離島振興の拡充や有人国境離島法の制定などの措置がとられてきた。しかし、こうした議論の中で「離島」は「国土」の境界として重視されてきたに過ぎず、国家の視点によって「離島観」が形づくられてきたように思われる。さらに一般の認識としても、それぞれの「離島」が「日本」の「国土」であることは自明のことと見做されがちである。しかし歴史上、「国境」は〈遷移〉するものであり、また国家による地域の支配には〈グラデーション〉が生じることは、「日本」においても同様である。「離島」はまさにそうした〈遷移〉や〈グラデーション〉の渦中にある地域であり、超歴史的に「国土」の一部であると理解することには問題がある。こうした陥穽に嵌ってしまう原因の一つに、歴史教育がある。近年は「一国史観」の克服が叫ばれ、様々な配慮がなされるようになってきているとはいえ、例えば「日本史」の場合、扱われる対象となるのは現在の日本国に含まれる領域である。それぞれの地域が各時代に「日本」の一部として認識されていたか否かにかかわらず、現在の「国土」に含まれるところの歴史が盛り込まれるため、古代から近世にかけての記述では、本州・四国・九州を中心とする「日本」の歴史を中心に描きつつ、続縄文文化・擦文文化・蝦夷・アイヌなどの北方史と、貝塚文化・グスク時代・三山時代・琉球王国などの南方史が、付け足しのように組み込まれるような構成になっている。一方で、かつて日本帝国が植民地支配や軍事的占領を行った地域である台湾や朝鮮半島、南洋群島、中国大陸、東南アジアなどについては、「日本」との関係を除いて地域の通史的な記述はない。このことは、科目としての「日本史」で対象とする「日本」は、あくまでも現在の日本国の領域であり8、「日本史」の視野の基点は今日の「日本」であることを表している。これは現在の国家領域が「国土」の最終形態であるかのような誤解を与えかねず、生徒に歴史学的発想を教授し、歴史的思考力を涵養するという歴史教育の目的の観点からも問題がある。岩下明裕は、次のように述べている。「固有の領土」など本来、存在しない。境界はいつでも変わる。境界づけられた空間、つまり領土はそのまま永久に続くと思い込み、それをただ「固有の領土」と子供たちに教えれば十分だ、といった姿勢が続くかぎり、日本の国境や領土の将来は危うい。いま求められているのは、領土とは何か、国境をどう考えるか、世界の事例を学び、日本という「くにのかたち」のあり方について身体性をもって考えてみることだ。領土や国境を「毅然として守れ」と声を荒げることではない。学ぶべきは、領土や国境での人々の具体的な生活であり、境界に対する関心の持ち方の涵養である9。歴史教育においてこのような視点を育む上で、可能性を秘めているのが「離島」である。現在の「国境」によって特定の国家の「領土」であることが自明であると思われがちな「離島」につ57
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