教育評論第38巻第1号
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は国民党による一党独裁体制が終焉し、民主化が進んだが、台湾島や澎湖諸島での戒厳令の解除が1987年7月15日であったのに対して、金門・馬祖・烏坵で解除されたのは1992年11月7日である。すなわち、これらの島々は日本帝国の植民地「台湾」でなかっただけでなく、中華民国政府の遷台後に現地住民が経験してきた歴史も、台湾島や澎湖諸島の人々とは大きく異なっているのである。厦門の対岸に位置する金門の場合、福建省の一部として大陸との日常的な交流が活発であり、金門人からすれば台湾島は「辺縁」であったが、中華民国の軍事的な〈最前線〉となったことで、台湾に遷った中華民国から逆に「周縁」化されることになった4。金門と台湾島とのつながりは、地理的にも文化的にも通時代的な必然性があるわけではなく、近代史の所産ともいうべきものであった。だからこそ後述するように、金門においては台湾島とは異なるアイデンティティや政治的志向性がみられるのである。現在、中華民国では実効支配している地域を示す概念として「台澎金馬」という語が用いられている。これは台湾・澎湖・金門・馬祖の頭文字をとったものであるが、それぞれの島々が■ってきた歴史を考えると、これら4つの地域によって中華民国が構成されるというのは、あくまで偶然の産物ともいえる。ベネディクト・アンダーソンがいうように、「国民」とは「イメージとして心に描かれた想イマジンド・ポリティカル・コミュニティ像の政治共同体」である5。しかしそれぞれ異なる歴史を経験してきた4つの地域の人々は、必ずしも共通の時間・空間を共有してきたとは限らない。特に軍事的な統制をより強く受けてきた金門・馬祖の人々が、台湾島・澎湖諸島の人々と同じ歴史や「物語」を共有してきたとは言い難い。それにもかかわらず、「台澎金馬」は歴史的な偶然から一つの共同体を構成しているのである6。では、金門・馬祖と大陸との関係はどうなっているのであろうか。金門・馬祖の人々は「福建人」であり、歴史的に大陸との間で活発な往来がみられ、中華人民共和国に対しても親和的な意識を持つ人が少なくない。政治的にも国民党支持者が多い傾向にある。しかし、だからといって単純に大陸寄りといえるわけではない。川島真は、次のように述べている。中華民国が大陸反攻政策を放棄したことで、金門は確かに「解放」された。その金門から見た場合、中華民国の台湾化が進行すれば、金門はふたたび台湾から周縁化される。そして、本当に台湾が独立でもする場合には、福建省に属する金門は切り離されるかもしれない。他方、中国と台湾との関係が緊密になり、直接の往来が活発になれば、金門島は両岸交流の最前線の地位を喪失し、福建沿岸の島に立ち戻ることにもなる。中国と台湾の境界線上にあるこの島の位置付けもまた、きわめて流動的であった7。ここでは、金門がおかれたアンビバレントな立場が端的に説明されている。すなわち、金門は中華民国と中華人民共和国のせめぎ合いの中に置かれているからこそ「両岸交流の最前線」としての地位を獲得しているのであり、中華民国から切り離されて中華人民共和国領となった場合には、「福建沿岸の島に立ち戻」ってしまうのである。以上のように、これらの島々をめぐる状況は単純ではなく、中華民国ないしは中華人民共和国56

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