教育評論第38巻第1号
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坂町中時報鐘)で、これが天満橋から梅田周辺まで聞こえたという。(注10) この稿に先行して、「日本の寒山寺─張継「楓橋夜泊」詩碑に寄せて」(『アジア・文化・歴史』第12号、2021年1月)・「日本の寒山寺補遺─張継「楓橋夜泊」詩碑に寄せて」(同第14号、2023年5月)・「夜半亭随記─巴人・蕪村・几董と「王維が垣根」」(同第13号、2022年2月)に論じたことがあることを付記する。(注11) 林教子(本部会所属特別研究所員)「高等学校国語科「言語文化」「古典探究」における漢文教材──傾向と扱い方──」(『早稲田教育評論』第37巻1号、2023年3月)の調査報告を参考にした。(注12) 以下の菅原道真の詩篇の引用は、川口久雄校注「菅家文草 菅家後集」(『日本古典文学大系』第72巻、昭和41年(1966)10月、岩波書店刊)による。(注13) 波戸岡旭「菅原道真詠梅考」(『國學院雑誌』第95巻第3号、1994年3月)、ならびに「菅原道真詠雪詩考」(同第100巻第4号、1999年4月)。(注14) 「道真離家落涙烏雁考」(『菅原道真論集』原載、2003年2月、勉誠出版刊。のち『日中比較文学叢考』所収、2015年9月、研文出版刊)に考察している。(注15) 坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代』(2001年、マガジンハウス刊)は、その年に生まれた夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、齋藤緑雨の七人に着眼する。(注16) 上州館林出身の実業家である南条新六郎の長女で、前橋の高等女学校を卒業して上京。「狂残銷魂録第一」に「砕心千里思、屈指三年涙(砕心 千里の思ひ、屈指 三年の涙)」と詠じ、続く「狂残痴詩」に思慕の情を募らせていることから、明治23年の上京頃から思いを寄せていたらしい。箕輪武雄「中野逍遥論」(『日本近代文学』第25集、1978年9月刊)には、恋愛の情とはいえ、「『大正過去帳』に収録されている貞子の夫三宅碩夫の死亡記事によれば、貞子はどんなにおそくとも明治二十四年の春には結婚していたはずである。」として、既婚者への執拗な熱愛であった可能性を示唆している。なお、田山花袋の恋人としても知られる。柳田泉『田山花袋の文学(1)』(昭和32年1月、春秋社刊)に、逍遥が恋心をもやしたことにも触れている。(注17) 笹渕友一『『文学界』とその時代 下』(昭和35年(1970)3月、明治書院刊)第十章「中野逍遥─「文学界」同時代論─」第四節において、『逍遥遺稿』に現れる中国の「詩文人の名をその頻度数の順序にあげ」たデータに基づく詩篇分析の中で、「司馬相如」の三十二という頻度数が他を圧して最も多いことを踏まえて考察を展開する。その数値は抽出方法が明らかでないが、「司馬相如」「相如」「長卿」「司馬」の用字によると四十例に近づき、「茂陵」「琴臺」「鷫霜鳥袍(裘)」といった属性に関わる語をも含めればさらに増える。二宮俊博「才子佳人小説との関わりをめぐって」(『明治の漢詩人 中野逍遥とその周辺─『逍遥遺稿』札記─』、2009年5月、知泉書館刊)第二節で、笹渕の挙げた「詩文人」に中国の文言小説中の人物が含まれ、稗史小説の逸事が典故として用いられることから、その方面の人名と頻度数を追補し、「六朝・唐や明の文言小説に登場する才子佳人あるいはその大団円を助ける俠丈夫、反対に恋路の邪魔をする敵役の名がしばしば見えていること」に注目する。相如と文君に関連しては、拙論「中野逍遙詩篇・小説考」(『国文学研究』第189集、令和元年(2019)10月)・「中野逍遙詩篇考─「病」「渇」「癡」の心象─」(『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』第32号、2022年3月)に論じたことがある。187

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