教育評論第38巻第1号
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文学史」を草せんことを期しながら、同年11月16日に急性肺炎のため不帰の客となった。前途有為な慶応3年生まれの俊才でありながら大成の日を迎えることがなかっただけに、その遺された詩文にまた愛惜の思いが喚起される。『逍遥遺稿』は、この二十七歳で夭折した中野逍遥を愛惜して已まない学友の宮本正貫・小柳司気太の編次によって、「人員三百四十五名」の人々から「合計金壹百九拾五円八拾九銭」が義捐せられて一周忌の命日に発行(非売品、五百部)された逍遙の漢詩文集である。正・外二編から成る。『逍遥遺稿』外編の編末「雑録」に掲出される正岡常規(子規)「逍遥遺稿の後に題す」には、逍遥子は多情多恨の人なり多情多恨の人を求めて終に得る能はず乃ち多情多恨の詩を作りて以て自ら慰むと「多情多恨の人」をもって評する一方、「尽く其詩料たらざるは無」き「天覆地載の間」の「花月の多情」「煙雨の多恨」は逍遥子の「多情」「多恨」を満たすに及ばず、是に於てか逍遥子は白雲紫蓋去つて彼の帝郷に遊び以て多情多恨の人を九天九地の外に求めんとすと、現世を離れて「多情多恨の人」を求めて旅立ったと記す。「多情多恨」の語は逍遥の人となりと人生を包摂する多様な意味を含蓄する。かくて「同窓の士同郷の人相議して其遺稿を刻し以て後世に伝へんとす」と編纂の意図を記す。逍遥「道情七首」は、『逍遙遺稿』外編の所載で、第一首に次のように詠じる。擲我百年命(我が百年の命を擲ち)換君一片情(君の一片の情に換ふ)仙階人不見(仙階 人見ず)唯聴玉琴声(唯だ聴く 玉琴の琴)この第一首は、逍遥の郷里宇和島の和霊公園に建立される「中野逍遥漢詩碑」に刻されることが知られる。その詠作の時期は、逍遙の逝去の一年ほど前のことと見られる。幼少から病弱の質にあった逍遙は、五、六歳から父に命ぜられて勉学に励んだ。起句の「百年命」は、逍遥の病弱にして短命であった境涯を想えば、ひときわ悲哀が漂う語ともなる。逍遥の詩篇には事実として少なからざる「百年」の語を見る。「道情七首」第三首の転句にも「欲共百年春(百年の春を共にせんと欲す)」、直前の「長想痩」にも「百年纏紅臂(百年 紅臂に纏ふ)」とあるのはもとより、正編冒頭から二つ目の「偶成」の第一首起句にも「百年才筆治安策(百年の才筆 治安の策)」、続く「病中口占」の第二首頷聯上句にも「百年心事易乖違(百年の心事 乖違し易し)」、同じく第四首の首聯下句にも「百年塵事不如慵(百年の塵事 慵きに如かず)」と百出するかの如くである。「十年」の語もまた正編「青春感懐」第三首の転句「十年一覚高楼夢」、同じく正編「秋日感懐」第四首の首聯上句「十年拓落没黄塵」のように多出する。「十年」は青春の歳月にも重なるものであるが、頻出する「百年」の語には、逍遥の心身に由来する長命への無意識の思い入れが潜むのかも知れず、その時間表記に関心が広がる。「我が百年の命」の対となる「君が一片の情」。その「我が百年の命」を「擲ち」、「君が一片の184やす

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