教育評論第38巻第1号
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鳥規 月落し、伊藤博文の知遇を得る機縁にも恵まれ、二年後の同30年(1897)に清国に渡った寒山は、荒廃していた寒山寺の住職となるという展開を見る。この中国の寒山寺に住持する生活がまた大きな行動力を呼び覚まし、三、四か月後の年の瀬には帰国して、寒山寺の復興ならびに行方の知れない寒山寺の梵鐘の探索に奔走する。やがて同38年(1905)春、夜半鐘が北陸の寺にて鋳潰された痕跡を発見し、寒山と伊藤は新梵鐘の作製を発願(伊藤博文総代、寒山願主)して趣意書を頒布するが、同42年(1909)10月26日に伊藤はハルビン駅で狙撃されて死亡。その後、同43年(1910)夏に梵鐘は完成し、大正3年(1914)にいたって新梵鐘を蘇州の寒山寺へ送る。その海を渡る搬送は「千哩の無銭旅行」と報じられた。かくて翌4年(1915)に千葉県に日本寒山寺の建立を発願、墨竹を描いて全国募縁を企図する中、同7年(1918)12月26日、下谷の寓居にて逝去。享年六十二歳。山田寒山の日本寒山寺建立の計画は実現を見なかったが、これより先、明治18年(1885)中国に遊学した田口米舫は、寒山寺の祖信禅師と邂逅し、仏像を託されて寒山寺の日本建立に向けての機縁が結ばれた。三年の遊学を終わり、帰国した田口は、将来仏の安住の適地を求めては、昭和5年(1930)に東京都下の多摩川上流の鵜の瀬渓谷に臨んだ青梅市澤井の地に寒山寺を落慶し、無住の寺ながら今日に静謐な信心の空間を伝えている。また、「夜半の鐘声」に関していえば、近世俳諧の与謝蕪村の師匠である早野巴人は、下野国那須郡烏山の出身で、「巴人」の号は、巴州地方の人の意から転じて、鄙俗な者、野夫、いなか者を意味する。早くに江戸に出て自らの身をこの語に擬えたともいえるが、其角・嵐雪の教えを受け、宝永・正徳のころには江戸俳諧の名士として知られ、やがて江戸を離れて上洛。留まること凡そ十年、宋屋・几圭等の有力な門人も得たが、老年になって望郷の念抑え難く、元文2年(1737)4月末に江戸に戻り、日本橋の「時の鐘」(石町)の近くに居を定めて「夜半亭」と号した。この号の三文字もまた「楓橋夜泊」詩の「夜半鐘声」に由来する。しかも蕪村は夜半亭で内弟子として起居をともにし、巴人の歿後には夜半亭二世を継ぎ、蕪村の歿後には高井几董が三世を継ぐ。一世の十三回忌となる宝暦5年(1757)に砂岡雁宕ら門人が編じた俳諧追善集『夜半亭発句帖』(「夏之部」「ほととぎす」)には、次の句を収める。 烏この夜半亭巴人の一句は、とりわけ「楓橋夜泊」詩の俳諧的受容の洒脱にして絶妙な風韻を伝えて愉快な響きを湛える詠作といえる。「楓橋夜泊」詩は、「言語文化」の趣旨からも多くの学びの話題を秘めているが、教材採用の現状の中では、「古典探究」の教材としての多様な展開が期待される(注10)。「言語文化」の日本漢文に関する教材にはどのような作品が採用されるか。その作品と作者とに注目すれば、教科書使用開始となる2022年度の検定済み教科書17点において、単独の作品としては、頼山陽「信玄と謙信」が六点で最も多く、次いで広瀬淡窓「桂林荘雑詠」と菅茶山「冬夜読書」が五点、正岡子規「送夏目漱石之伊予」・原念斎「野中兼山」・中野逍遥「道情」が四点で180子マイルほととぎすおちからすとりの声こくちょう〔2〕菅原道真「謫居春雪」詩

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