字句を襲用したパロディー的な詠作に他ならない。「兵戈破却」とは、太平天国の乱によるこの寺の破壊を捉える。詩篇は副島の『蒼海全集』巻一(注7)に「楓橋」の題で収載されるが、さらに興味深いのは、倉石武四郎『支那語教育の理論と実際』「支那語学の改革」九(注8)の記載である。「むかし日本から派遣された公使などは、たとへば副島蒼海伯とか、竹添井々先生とか云ふ漢學の素養の深い人物で、現代の支那語は話されなくとも、その教養から、支那の官吏を信服せしめることができた。」に続く部分である。 蒼海伯が、かつて蘇州の寒山寺で、支那の詩人墨客と宴集されたことがあつた。支那人は我がちに即席の詩を作つて誇り示したが、蒼海伯は更に作らうとしない、支那人がしきりに促すので、やをら筆をとつて月落烏啼霜満天 江村漁火対愁眠と書いた、支那人は、蒼海伯は詩を作ることができないので、張継の詩を書いたと思つて、早くも嘲笑の色を浮べた、蒼海伯は更に姑蘇城外寒山寺と転句を書するにいたつて、席を立つものすらあつたが、結句は無復鐘声到客船と、わづかに二字だけかへて、静かに筆をおかれた蒼海伯の才藻と量とに、場にはかに容を改めたと云ふ。この所伝は、末尾に「(長尾雨山先生の口述による)」とあるが、副島の「楓橋夜泊」詩ゆかりの詩篇として、口承を経て生まれた異伝とも想像される。中国唐代の張継の「楓橋夜泊」詩が異域の日本の人々の心にも大いに息づく一斑を、その余韻を通して紹介してみたが、日本の風土には、奥多摩の地に無住ながら寒山寺が建立されるだけでなく、関西は箕面市にまた寒山寺が所在する。その由来は古く江戸の寛永11年(1634)に滋賀県大津の膳所藩主となった石川忠総が瑞南禅師のために創建し、慶安3年(1650)に石川氏の転封・領地替えにともない大阪城下の西寺町に移転となり、さらに昭和43年(1968)、大阪万国博覧会の都市計画に際して、箕面市に移転したという変転の歴史を重ねたことが知られる。その「寒山寺」の命名は、琵琶湖と紅葉の風趣が「楓橋夜泊」の詩趣によく似ていたことに由来するといい、2019年10月には開山に招かれた瑞南卜兆禅師(1568〜1669)の三百五十年遠諱が営まれるという歴史を重ねる。移転前の西寺町の寒山寺の鐘は、元禄16年(1703)11月22日に成る。名鐘として知られ、近松門左衛門の『曽根崎心中』の「道行」の中で、お初徳兵衛が「あれ数ふれば、暁の、七つの鐘が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め……」と描かれるのも、この寒山寺の鐘であったことを同寺HPにも紹介する。ただ、「曽根崎天神の森の心中事件は元禄16年(1703)4月7日、上演は5月7日で、鐘の銘は11月なので、まだ寒山寺の鐘は響かない。」とは、柴田光彦「山田寒山と寒山寺鐘をめぐって」の「七、大阪寒山寺の鐘」における時間のアヤを突いた巧みな考説である(注9)。この西寺町の寒山寺に停錫したのが、明治21年(1888)に七年間住職をつとめた紀伊の最明寺を退いた山田寒山であった。寒山はこの大阪の寒山寺に馴染み、寒山拾得の故事を想い、ついに「菊香」の雅号を「寒山」に改めたと自ら明かしている。不惑を迎えた明治28年(1895)に上京179
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