する(注3)。およそ改修後十年を経ての寺宇の様子、ならびに日本人に「馴染の深い」人気の観光名所としての位置が知られるが、戦後においても人気のスポットであることに変わりはない。芥川龍之介よりも早く大正7年(1918)10月10日から12月11日に中国を旅したのが、谷崎潤一郎であった。その11月22日から25日にかけて蘇州に滞在した谷崎は、「蘇州紀行」(注4)に、(略)私は成る可く紅葉見物をざつと済ませて、日の暮れないうちに再び画舫で寒山寺の方へ行つて見よう。さうして、あの剪灯新話の聯芳楼記の中にある、蘭英蕙英の美しい姉妹が住んでゐた閶門外の運河の方にまで、船を廻して見よう。さう思ひながら、私は駕籠を下りててくてくと山路を登つて行つた。と記す。『剪灯新話』は明の瞿佑の■。巻一所収の「聯芳楼記」は蘭英・蕙英という美しい姉妹の恋愛をテーマとする小説で、「蘇州紀行」の文中には、この一段を始めとして姉妹の話題が相継ぐ。谷崎の蘇州の観光目的はこの姉妹のゆかりの地の探訪にあったといっても過言ではあるまい。姉妹の閶門外の家はもとより、詠作した「蘇台竹枝曲」の第二首・第四首の詩句も引かれる(注5)。「もう直きに寒山寺でございます。」と「忘れて居た案内の役目をふと思ひ出したやうに、間の抜けた声」でいった女将に対して、「はゝあ」と答えたきり「猶ほも一心に川の景色を視詰めて居る」谷崎。やがて「我れ我れを此処まで運んで来た堀割の水は、楓橋の彼方で丁字形に交叉してゐる運河の水と一つになつて、閶門外の市街の方へ押し流れて行くのであらう。」と姉妹の住み暮らした憧憬の空間への思いをめぐらす中、画舫は「楓橋」をくぐり抜ける。「寒山寺の対岸には支那には珍しい小松の林が連つともて居る。艫の方を振り返ると、夕日がもう霊巌山の塔のほとりに沈みかけて居た。」と文を結び、後には「蘇台竹枝曲」の第一・四・五・七・九首を引用し、第九首の後には「(聯芳楼記)」と記す。昭和になって、中島敦は昭和11年(1936)に中国を旅する。8月8日に横浜を夜行列車で長崎に向けて出発し、途中、西宮の氷上英廣宅に二泊して、観光しつつ長崎へ。8月14日に日本郵船の長崎丸に乗船。翌15日夕刻、上海港に着岸。8月20日・21日に杭州一泊旅行。25日には、蘇州へ日帰旅行。蘇州の参観地は、同行した三好四郎の記録によると、虎丘、寒山寺、西園、留園、北寺などを訪ねている。本人の旅行記等も残らないのが惜しまれるが、この旅中に詠まれた歌の載る「朱塔」(注6)には、「蘇州の歌」に八首を収める。寒山寺そのものは詠出されないが、その第四首には、水牛は童をのせて行きにけり姑蘇城外川と江南の水の街の風趣を詠む。「楓橋夜泊」詩ゆかりの「姑蘇城外」の文字が詠作に活きている。遡って、明治9年(1876)、この寒山寺を訪れた外務卿副島種臣は、次の七言絶句を披露したと伝える。月落烏啼霜満天(月落ち烏啼いて霜 天に満つ)楓橋夜泊転蕭然(楓楓 夜泊 転兵戈破却寒山寺(兵戈破却す 寒山寺)無復鐘声到客船(復た鐘声の客船に到る無し)起句は張継の詩句をそのまま残して、詩題の「楓橋夜泊」の四字、詩中の「鐘声」「客船」の178た蕭然)かはぞうた傍ひの道
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