「言語文化」の教科書からは姿を消していることは、唐詩の中でもとりわけ人口に膾炙する詩篇であるだけに特別な思いが去来する。月落烏啼霜満天(月落ち烏啼きて霜 天に満つ)江楓漁火対愁眠(江楓 漁火 愁眠に対す)姑蘇城外寒山寺(姑蘇 城外 寒山寺)夜半鐘声到客船(夜半の鐘声 客船に到る)この「楓橋夜泊」詩は、蘇州の寒山寺の参観・観光と相俟って、日本国内において最も拓本が流布する詩篇といえるかも知れない。といって、その拓本の文字は張継の直筆になるものではない。古く宋の王珪(王郇公)が書いた第一石に始まり、蘇州の人で明の「三絶」と称賛された文徴明の筆になる詩碑が第二石となる。長年の風雪にその損耗甚だしく、光緒32年(1906)、江蘇巡撫の陳夔龍(1857〜1946)が寒山寺の改修に際して、清末の名高い学者兪樾(字は曲園)に託して書写・新彫したのが第三石であり、その詩碑の拓本が今日に流通する。大正10年(1921)3月下旬から7月上旬にかけて中国を旅した芥川龍之介は、「江南游記」(注2)十九「寒山寺と虎邱と」の中で、客。蘇州はどうだつたね?主人。蘇州は好い処だよ。僕に云はせれば江南第一だね。まだあすこは西湖のやうに、ヤンキイ趣味に染んでゐない。それだけでも有難い気がした。と「客」と「主人」との問答体による紀行を展開する。すかさず「客。姑蘇城外の寒山寺は?」と張継の詩句を踏まえて問えば、「主人。寒山寺かい?寒山寺は、──誰でも支那へ行つた連中に聞いて見給へ。きつと皆下らんと云ふから。」という旅行者の一般的な評価をとらえて、「客。君もかね?」と問い返されては、主人。さうさね。下らんには違ひない。今の寒山寺は明治44年〔1911年、筆者注〕に、江蘇の巡撫程徳全が、重建したと云ふ事だが、本堂と云はず、悉紅殻を塗り立てた、俗悪恐るべき建物だから、到底月落ち烏啼くどころの騒ぎぢやない。おまけに寺のある所は、城の西一里ばかりの、楓橋鎮と云ふ支那町だがね。これが又何の特色もない、不潔を極めた門前町と来てゐる。と応じる中で、程徳全の改修(宣統2年(1910))を紹介する。これは陳夔龍の改修を基礎にして、後任の程徳全が布政使の陸鍾琦とともに大殿の重建など、呉中の名刹にするに相応しい更なる改修を推進したが、芥川は陳夔龍の改修には一言も触れない。「月落ち烏啼く」に象徴される情趣と現実の風趣との乖離が示されるが、「客。それぢあ取り柄がないぢやないか。」と追い打ちされては、主人。まあ、幾分でも取り柄のあるのは、その取り柄のない所だね。何故と云へば寒山寺は、一番日本人には馴染の深い寺だ。誰でも江南へ遊んだものは、必寒山寺へ見物に出かける。唐詩選を知らない連中でも、張継の詩だけは知つてゐるからね。何でも程徳全が重修したのも、一つには日本人の参詣が多いから、日本に敬意を表する為に、一肌脱いだのだと云ふ事だ。すると寒山寺を俗悪にしたのは、日本人にも責はあるかも知れない。この『唐詩選』ゆかりの張継の詩篇の、日本での高い知名度のみならず、俗悪化の元凶にも言及ことごとくかならず177
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