教育評論第38巻第1号
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注1 「実施民衆教育案」、中華民国大学院編『全国教育会議報告』、商務印書館、1929年、385〜397頁。2 デューイは著書『学校と社会』においては学校を小社会(a miniature society)と考えた。具体的に、彼は学校という組織は、地域社会の縮図的要件を構造的に内包した小社会であるとの認識に立脚し、地域社会における日常生活での経験をより豊かにすることが学校教育の役割であると主張した。出典:ジョン・デューイ『学校と社会,ほか』、上野正道等訳、東京大学出版会、2019年。本論文は、中国初めての民衆教育人材を養成する高等教育機関であった江蘇省立教育学院に焦点を当て、教育、実習、研究実験という3つの側面から、教育学院の展開を考察した。1930年、江蘇省立教育学院という民衆教育の人材を育成する初の高等教育機関は、兪慶棠や高陽などの民衆教育者の努力の下で、最初の江蘇大学民衆教育学校(1928年)から、改称や移転、院長交代などを経て正式に成立することとなった。当時、教育学院においては、留学経験を持つ教員は14名(共41名)であり。層の厚い人材を擁した。彼らはデューイを代表とする進歩主義教育理念を受け、教育学院での教育活動では実践を重視する姿勢が強かった。教育学院は授業のほか、多種多様な実習活動を行った。1年目は教育学院の各実験機関を見学したが、2年目から本格的な教育実習を行い、学生は教育学院が開催した民衆教育活動に参加し始めた。3年生は教育学院が成立した実験機関で民衆教育事業を行い、県外の民衆教育機関へ見学する機会もあった。4年生は1年間、長期的に農村部や都市部に住み込み、当地で民衆教育の実践を進めた。長期的な実習活動を行い、その中で学生たちの思想変容が見られた。最初に考え方も言葉も通じない「都会の先生」は、「完全に農村社会に同化され」、民衆の「莫逆之交」となった。このようなことから、教育学院は「学校の社会化」という民衆教育者の理念を実行した。また、研究実験に関する取り組みも活発であった。本章では、農事試験場の運営に焦点を当て、学院内で行われた研究実験活動を考察した。農事試験場においては、品種改良による農産物の品質の向上や、肥料・農薬を用いた生産量の向上など、農業に関わる課題に科学的アプローチで取り組もうとし、農事改良の普及事業も徐々に進んでいた。とりわけ、農事試験場の実践においては、地域社会とのつながりを重要視し、農事研究の成果を地域社会に活かして、大学の社会貢献の機能を果たした。大学として地域社会に根ざした実習活動や農事試験を行い、積極的に地域社会の振興に参画したことは、当時の中国社会では、革新的であった。このような教育活動の実施は、19世紀末から始まったアメリカのライシーアム運動や大学拡張運動からの影響があるのではないかと推測できる。本論文では、欧米の教育思想および教育活動と比較しながら民国期の民衆教育について論じてきたものの、欧米の教育活動との比較は概説的なものに留まっていることである。今後は、幅広く文献を収集し、20世紀初頭の活発化する世界的な民衆教育の展開を視野にいれつつ、国際比較の視点から民衆教育の実態像を検討したい。123まとめ

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