誌『教育与民衆』を月1回、発行している。国内の民衆教育に関する研究動向や議論を広く発信し、さらに諸外国の教育理念、社会状況を中国社会に紹介し、民衆教育に関する研究の推進に大きな影響を持っていた。『教育与民衆』は夏季を除く月1回発行で、停刊の1948年まで合計114期を発行し、約2,600件の文章を収録した(1938−1939年、1941−1945年休刊)。編集長は教育学院の研究実験部主任が務め、長年に亘って編集長であった雷沛鴻、また、傅葆琛、兪慶棠、邵暁堡であり、いずれもが、民国期に活躍した教育者である。『教育与民衆』には「挿絵」、「専論」、「訳述」、「調査報告」、「書評」、「講演」、「国内外民衆教育情報」などのコラムが設けられ、国外の教育に関する研究動向や著書を翻訳して中国社会に発信していた。1932年までに、研究実験部は『英米成人教育書目』(1930年)、『各国成人教育概況』(共2輯)(1932年)、『米国成人教育面面観』(1932年)、『再版日本論文小叢書』(1932年)など諸外国の成人教育の動向に関する著書を出版した33。さらに、研究実験部は生物実験室、昆虫実験室、農学実験室、成人心理研究室、農事試験場などの施設を設立し、学院外で民衆学校、民衆教育館、民衆教育実験区を設け、民衆教育や農事教育に関するあらゆる教育実験を展開した。ここでは農事試験場の展開に焦点を当て、学院内の研究実験活動を確認する。農事教育学系、農事教育専修科の学生が農業に関する科学研究や実習を行う拠点として、農事試験場が設置された。歴代の農事教育学系の主任であった顧復、呉福楨、童潤之、劉同圻が相前後して農事試験場の主任を務め、いずれも当時中国の高名な農業学者であった。ところで、農事試験場は農学を専門的に研究する施設ではなく、優良種子を提供し、農事を指導できる専門人材を育成するという農家からの切望に応える施設と位置付けられており34、そこで展開された事業は概ね農事実験、農業改良普及、農事実習という3つの側面に分けられる。①農事実験教育学院の設立直後、農事試験場の事業は農地整備及び農事実験に集中した。とりわけ、無錫県の風土に適合する稲麦の試作に力を注いだ。従来の労農学院に附設された約30畝の農場に加え、近所の農家から約20畝の農地を借り、稲麦の栽培についての実験を行った。その中で、約10畝の農地はモデル農地として使われて農家との連携活動を行うことになった。モデル農地においては選種や施肥などの改良活動が推進され、定期的に農家向けの見学活動も行われ、農家との関わりが多く見られた。選種に関しては、主に江蘇省立稲作試験場や中央大学、金陵大学が育成する実験品種や優良品種を使用した35。このようなことから、当時の教育学院においては、他の大学や研究機関との連携や交流も積極的に行われたと見られる。また、生活困窮に陥った農民たちを助けるための副業の重要性を実感し、財政難の状況にあるにも関わらず、教育学院は牛舎や豚舎、鶏舎を建て、外国産の種豚、種牛、種鶏、種蜂を購入した36。そして都市部の園芸事業に関する実験も行われた。農事試験場は国内外の農業機関から良種や良苗を購入し、それを栽培して優れた植物の繁殖と普及を求めた。また1932年から秋蚕の飼育、119
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