教育評論第38巻第1号
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に話せて、完全に農村社会に同化された」27というように自分の変化を述べている。1986年6月、恵北民衆教育実験区の民衆学校で勉強した学習者からの手紙が元教員の王倘に届いた。「私たち田舎の貧困青年は、農作業の合間に実験区で教育を受けた……それから50年が経ち、私たちの多くは自立し、社会に貢献することができた。今思えば、当時実験区で受けた教育は、私たちが身を立てることに大きな影響を及ぼした」28と言及していたという。その意味で、「大都会出身の洋先生」であった実習学生と「原始社会の遺風」が強い農民たちは、積み重ねた日々の付き合いを通して、相互理解を深め、親しい関係性を築くことができたのであろう。このような長期的実習は価値と意義が生み出されてくる取り組みと考えることができる。さらに、教育学院はこのような形で、民衆教育者が提起した「学校の社会化」という理念を徹底することを確保したと考えられる。ところで、民衆教育の担い手を地域社会で育てるという理念の形成は、教育学院で職に就いたアメリカ留学帰国者の努力とは切り離せないと考えられる。19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカに勃興したライシーアム運動は、次世代の育成と国家の繁栄という公共的使命を持つ「専門職」として教師を捉え、教師を対象とした教師教育の必要性を主張した。そしてライシーアム運動の指導者ホルブルックは、教師の研修施設として、「ライシーアム・ヴィレッジ」(Lyceum Villages)を設立した。教育学院の民衆教育実験区と同じように、ライシーアム・ヴィレッジでは、「実践的な教育」を目指し、地域社会に根ざした実習活動を展開した29。こういったアメリカの社会運動は、教育学院の関係者に大きな示唆を与えた。1931年の「民衆社会教育談」で、兪慶棠はショトーカ運動やライシーアム運動の展開を紹介した。特にライシーアム運動の目標や各種の取組を詳細に分析しながら、それが民衆の自治精神の高揚に大きな役割を果たしたと称賛した30。こうして、教育学院はライシーアム運動の「ライシーアム・ヴィレッジ」の取り組みに類似し、民衆教育実験区を設立し、地域社会で長期的な実習活動を実施するようになったと考えられる。翌年の夏に「研究の中で実験の方法を探究し、実験の中で研究の問題を探る」31という、研究と実験の結合を求め、研究部は実験部と合併して研究実験部に改称した。当初、研究実験部の主任は平民教育家の傅葆琛が務めたが、1932年に傅は主任の職を辞任し、その後、雷沛鴻が研究実験部の主任に就任した32。研究実験部においては、まず民衆教育に対する研究、調査、出版活動を行い、民衆教育の学術118(3)研究・実験活動:農事試験場の取り組みを例として1929年に教育学院の前身である民衆教育院に実験部が発足して以降、実験を重視する精神は脈々と受け継がれた。その後の教育学院時代においても総務部、教務部並びに実験部が設置された。1930年、教育学院は科学的な方法に基づいて民衆教育実験を実行するため、また民衆教育に関する学術研究を推進するため、従来の実験部に加え、新たに研究部を設置した。研究部においては、民衆教育原理及び民衆教育基礎などの理論的な原理を探究する研究と、民衆教育の実施及び普及に向けたあり方を探究する研究を行った。

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