以上の記述によれば、1年間の長期的な実習とはいえ、朝早くから夜遅くまで懸命に働くのがを開いたりすることもあった。 各種の臨時活動も多かった。例えば、良種の普及、牛痘種痘の普及、予防接種の実施、ゴミ箱の設置、衛生展覧会や稲作展覧会の開催、乳児健康コンテストや卓球大会、シャンチー大会の開催、民衆学校同窓会の開催、各種の記念日活動の実施といった活動が定期的に行われる。以上の活動の事前の計画と宣伝、また事後の整理と統計もかなりの時間がかかるが、1つの分区の職員は2名しかいない。そのため、夜遅くまで仕事をすることもたびたびある21。一般的であった。しかし多くの学生にとって最も大変なことは実習の多忙さではなく、自分とは異なる背景や価値観を持つ他者とどのように関わっていくかということにある。実習学生の湯桂林は、自分のことを「四体不勤、五穀不分(四体勤めず、五穀分かたず)、都市から離れた経験さえなかった」22と語った。湯桂林のように都市部に生まれ育った学生は、当時の教育学院には決して少なくなかった。こういった学生にとって農村社会の生活には「原始社会の遺風」が強かった一方、当地の民衆にとって実習してきた学生は、まるで「大都会出身の洋先生」のような存在であった。そのため、実習学生と一般民衆はもっと積極的に歩み寄る関係であるべきだが、「民衆は常に疑心暗鬼になり、中には自分のことを恥ずかしく思い、私たち(実習学生)と付き合えない者もいる」23という実習学生の記述から、互いに疎外感があるのが実習当初の現実であったことが読み取れる。また、方言の問題は実習学生の目の前に立ちはだかるもう1つの課題である。「農村へ行く私たちは、最初の段階でとても苦悶した。言葉が通じないため、数名の地域エリート以外には、ほとんどの民衆と話すことができなかった。半月かかり、ようやく「倷伲(無錫県の方言、日本語:私たち)」の一言が言えるようになった」24という、教育を実施する側にある実習学生にとっては、言葉が通じないことはかなりの苦痛であったと考えられる。しかし、このような文化による隔たりや疎外感は、畑での共同労働や、良種の普及、予防接種の実施といった日々の付き合いの中で、少しずつ解消するようになったと見られる。とりわけ、実習学生は農村社会に生きている人々の生活をより理解できるようになった。例えば、1933年、黄巷実験区で教育実習を受けた学生の葉蘊貞は、長期的に黄巷にある農家に暮らした。普段、彼女は農婦と一緒に布靴や子供服を作ったり、家事をしたりして、親しい関係を築いた。毎日の夕飯後、葉は民衆夜校で授業を行い、医薬衛生の常識についても農婦たちによく話したという25。葉は自分と農婦たちの関係を「莫逆之交」と形容した。また流動教学(各地域に巡回して教育活動を実施する)を行っていた実習生の湯桂林は、「授業中に20代の女性たちが授乳しながら本を持って勉強する様子を見て、敬服と慚愧という複雑な気持ちが胸に湧きおこった」26と自分の実習経験や思いを語った。こういった語りから見ると、農民たちは一般的に認識されていた「愚・窮・弱・私」の存在ではなく、むしろ窮地に立たされても負けない強さがある。その中では学生の農民たちの生活様式への理解が見られる。そして、最初の頃に言葉が通じなくて苦労した湯は、「まさかのことに思われるが、今は現地の人と流暢117
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