112(2)教職員構成1932年の「江蘇省立教育学院鳥瞰」は、教育学院の教職員の状況を紹介している11。1932年に、教育学院の教職員は合計94名であり、そのうち教員は31名であった。大学として、教育学院の教職員の数は決して多いわけではなかったが、さらに兼任の形で複数の職務を務めた教職員が多かった。31名の教員の中で11名が、教育学院の職員も兼任していた。また、民衆の中で農業従事者の比率が高く、農民の生活を改良することが喫緊の課題として認識されていた。この背景を受け、1928年12月に労農学院が創設された。しかしながら、1929年には、前2年間に施行されていた大学区制が廃止され、民衆教育院と労農学院は教育庁の管轄となった。1930年6月、大学組織法と大学規程を基に、民衆教育院と労農学院は統合され、江蘇省立教育学院として再編された。アメリカのコーネル大学での留学経験を持ち、民衆教育院および労農学院の院長を務めた高陽は、新たに設立された教育学院の院長としてその職務を継続した。教育学院は、無錫県の通恵路社橋に位置し、駅から1キロメートルほどにあり、交通便利なところであった。教育学院の周辺には村落や農地、工場などが混在しており、各種の民衆教育実験を実施することができる。教育学院の敷地面積は約68平方キロメートルであり、校内にはおよそ210の部屋があった。教室や事務室、講堂、科学館、農事試験場、図書館、実験工場などの教育施設がそろっていたほか、教職員と学生の寮や、食堂、浴場、病院などの生活施設も設置された。さらに、校外には約133平方キロメートルほどの広い農場と、幾つかの民衆教育実験地があり、そこで民衆教育や農事教育の実験が行われた。また、1935年の『江蘇省立教育学院一覧』では、教職員の構成や経歴を詳細に紹介している12。1935年に、教育学院の教職員は合計110名であり、そのうち教員は41名であり、1932年より10名ほど増えた。兼任が相変わらず多く、例えば民衆教育学系副教授の王倘は恵北実験区主任を兼任し、専任講師の姜尚愚は、総務部文書股主任を兼任した。確かに1930年代の中国では、国を振興するため近代的教育を行い、海外に積極的に留学生を派遣したが、旧体制から新体制への移行においては、各業界における人材不足の問題は依然として深刻だった。この状況に鑑み、教育学院は柔軟な雇用の仕組みで人材を確保したのであろう。このようにして、専任教員、兼任教員、また外部からの客員教員を積極的に招くことで、教育学院の充実した研究・教育活動が行われていた。教育学院の教授、後に院長を務めた童潤之によると、1936年までは約400名の学者が教育学院で授業を開講した。教育学者のみならず、農芸、園芸、農業経済、映画、放送など、幅広い専門分野の学者が教育学院で活躍したという13。1934年の入学生である劉於艮の回想録からは、教育学院は層の厚い人材を擁したことが読み取れる。当時、留学経験を持つ教員は14名であった。教育哲学を教授した教員の孟憲承は、国民政府初の「部聘教授(教育部が直接に任用する教授、1941年30名)」の唯一の教育学教授であり、授業ではデューイの『民主主義と教育』を教科書として使っていた。図書館組(組:専攻に相当する)の教員は、教育学院の図書館館長である沈丹尼のほか、中央大学の図書館館長である洪有豊や、金陵大学の図書館館長である劉国均といった当時、中国の図書館管理の専門家も、教育学院で図書館に関する授業を行った。国際時勢は当時の名高いジャーナリスト兪頌華が開講した。
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