教育評論第38巻第1号
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取り組みを通して、無錫県の下層民衆と深く関わった、という4つの特徴があると論考した。しかし、論文自体は4ページほどで短く、十分な分析が尽くされているとは言えない。また、江蘇省立教育学院の展開について取り上げている研究として、新保敦子の「中国における民衆教育に関する一考察─兪慶棠と江蘇省立教育学院をめぐって─」7がある。この論文は、教育学院の設立経緯および教育内容、さらに江蘇省における民衆教育の発展の上で果たした役割について、具体的に検討しており、非常に参考価値が高い。そして、杜光勝等の「陳汀声与江蘇省立教育学院的電化教育」8、徐紅彩等の「中国最早的電化教育専業創建始末」9という2つの論文は、教育学院が1936年に設立した2年制の「電影播音教育(視聴覚教育)専修科」の展開について検討した。教育学院の「電影播音教育専修科」は中国初の視聴覚教育専攻である。ここでは人材の育成のみならず、民衆教育関連の映画を作り、全国で放送する取り組みも行われていた。これは中国の視聴覚教育の先駆けとして評価できよう。しかしながら、全体的に見て教育学院の重要性は必ずしも認識されておらず、先行研究も十分なものではないと言えよう。とりわけ、欧米社会の教育理念や取組を共感し、意欲的に中国社会に紹介した教育学院の関係者が、教育学院での教育活動および地域社会での民衆教育実践を展開するにあたり、そこに欧米社会の教育理念はどのように反映されたのかに対する分析は不足している。また、教育学院の民衆教育実践は、地域の社会状況に深く関わることが特徴であるが、先行研究の殆どは、教育学院が主導した事業に重点を置いたものであり、一般民衆の姿は従来の研究に見られず、教育学院の実践に対する民衆の反応や参加度などについては検討されていない。当時、拡充教育処処長を務めた兪慶棠(民衆教育の保母と評価されている)は、江蘇省の民衆教育の推進を図っている。兪は民衆教育が単なる識字教育ではなく、民衆教育を通して、民衆の生活問題を解決しながら、民衆の生活力と組織力、そして民族の自信を育成することが民衆教育の内実であると提起した10。こういった民衆教育を実現するにあたって、民衆教育館をはじめ、図書館や民衆学校などの教育施設の推進及び施設の機能をうまく活用できる専門性の高い民衆教育の人材の育成が重要となる。故に兪は民衆教育に関する専門的な知識と理論を教授し研究する高等教育機関の必要性を高等教育処に訴えた。高等教育処の承認を得て、兪は学校の成立に奔走し、1928年3月に蘇州にある江蘇公立医学専門学校の校舎を借りて、江蘇大学民衆教育学校を設立した。1928年6月、江蘇大学民衆教育学校は民衆教育院と改称し、同年8月、民衆教育院は前・私立公益工商中学校の校舎を借用して、蘇州から無錫へ移転された。3.江蘇省立教育学院の設立と教職員の構成(1)江蘇省立教育学院の設立1928年の「民衆教育案」の公布によって、民衆教育館の普及などの取り組みが行われ、民衆教育への注目が高まってきた。しかし、当時は民衆教育=識字教育という通念があり、肝心の人材育成の問題については、あまり重視されておらず、民衆教育の教職員は短期訓練班で育成し、大学レベルの教育機関は設置されていなかった。111

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