教育評論第38巻第1号
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注目に値する。当時の民衆教育を考察するにあたって、民衆教育館館長の揺籃と呼ばれ、民衆教育の拠点とも言える教育学院、及びそこで民衆教育の学術的研究や実践に携わった教育者たちの取り組みの検証は重要である。1930年、教育学院は高等教育機関として設置され、アメリカ留学帰国者を中心とする多くの教育者が活躍していた。高陽院長(1892−1943、コーネル大学)をはじめ、兪慶棠(1897−1949、コロンビア大学)、李蒸(1895−1975、コロンビア大学)、陳礼江(1895−1984、シカゴ大学)、雷沛鴻(1888−1967、ハーバード大学)、孟憲承(1894−1967、ワシントン大学)などである。留学経験を持つ教育学院関係者の多くは、1910年代〜20年代にアメリカに留学し、デューイ(J. Dewey, 1859−1952)を代表とする進歩主義教育思想の影響を強く受けていた。彼らは、それまでの地域社会から閉鎖された学校を批判し、教育学院においてデューイが提唱した「学校の社会化」(socialize the school)2を実践した。学生の地域社会での経験をより豊かにするため、教育学院での教育活動は、知識の伝授よりも農場試験や教育実習などの教育活動に積極的に取り組み、現場での民衆教育の人材育成を重視した。とりわけ、一年間の長期にわたる実習期間を設け、学生が農家に住み込み、民衆と一緒に生活しながら民衆教育の活動を展開したことは画期的であったと思われる。このように教育学院は、近代的な教育思想を持って農村の改良に取り組む民衆教育の指導者を育成したのである。しかし、中国社会を振興しようとする決意、社会改良に向けての先進的な教育理念、質の高い人材などの要素があったにもかかわらず、教育学院の実践は必ずしも順調とは言えなかった。とりわけ、西洋の先進的な教育理念は、必ずしも当時の後進的、閉鎖的農村社会の状況に合致するものではなかった。散漫で組織性の欠如した社会生活に馴染んだ民衆は、国民政府の存在さえ知らず、社会の改良に全く無関心だった3。こういった民衆たちを、民衆教育者の期待のように、合理性に基づきながら組織的に社会問題に取り組み、それを解決するように仕向けるのは困難であった。彼ら「農村出身の農民(中国語:郷下人)」の目からみれば、民衆教育に取り組む教育実践者及び教育学院の学生たちはあくまでも「大都会出身の洋先生(洋先生:西洋かぶれ)」であり、その教育活動も自分の生活からはるかに遠い存在であった。例えば、民衆教育の関係者と同じく農村での地域開発に取り組んだ梁漱溟は、「知識人は満腔の熱血を灑いで郷村建設」に取り組んだが、「農民から歓迎されなかった」4と自らの実践を反省しつつ述懐している。本論文では、教育学院の展開を考察し、①その取り組みは、西洋社会からどのような影響を受けたのか、②不慣れな農村社会で民衆とどのように向きあったのか、という2つの問題を明らかにしたい。張蓉は著書『中国現代民衆教育思潮』において、民衆教育の人材育成と学術研究の拠点である教育学院の設立は、中国の民衆教育の勃興をもたらしたと述べている5。彼女は論文「試析江蘇省立教育学院的弁学特色」6の中で、教育学院は、①民衆に奉仕する教育方針は終始一貫していた、②社会生活の要求に応えるカリキュラムを編成した、③実際の社会に役立てるための学習を重視し、学生の見学や実習活動が豊かであった、④大学の社会貢献を強調し、民衆教育実験区の1102.先行研究

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