教育評論第38巻第1号
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キーワード:江蘇省立教育学院、社会教育、中国教育史、民衆教育【要 旨】1930年、第四中山大学区拡充教育処処長を務めていた兪慶棠の主導下で、江蘇省立教育学院という民衆教育の専門的人材を育成する中国初の高等教育機関が創設された。江蘇省立教育学院は「民衆教育館館長の揺籃」と呼ばれ、当時、全国的に急増していた民衆教育館の職員を養成し、民衆教育の発展にとって欠かせない存在であったと言える。江蘇省立教育学院は、中国の学術界や教育界で活躍していた教授陣を擁していた。欧米留学帰国者が多く、彼らを中核とする教育学院は、近代的なノウハウを兼ね備えた民衆教育の人材を本格的に育成しようとした。当時、デューイらが提唱していた進歩主義教育運動は、中国社会に多大な影響を与え、江蘇省立教育学院も、デューイが提唱した「学校の社会化」を積極的に実行していた。一方、国民政府の大学法の中には民衆教育の学科設置に関する規定がないため、当時の江蘇省立教育学院の運営は、すべて中国社会の状況に即し、実践の中で模索して創造されたものである。本論文は教育、研究、実験という3つの側面から、民衆教育の専門的人材を養成する江蘇省立教育学院の展開を明らかにした。実践を重視する姿勢が強い教育学院は、多種多様な実習活動を行った。とりわけ、教育学院の農事試験場においては、品種改良による農産物の品質の向上や、肥料・農薬を用いた生産量の向上など、農事改良の普及事業も徐々に進み、科学的アプローチで農村社会の改良に取り組もうとしていた。このような教育活動は、19世紀末から始まったアメリカのライシーアム運動や大学拡張運動からの影響があるのではないかと推測できる。これらの動きから見ると、留学背景を持つ民衆教育者が教育学院を拠点として、欧米の先進的な教育理念の紹介しながら実践に取り組み、中国教育史に画期的な存在と言える民衆教育の専門家を養成する高等教育機関を作り上げたと思われる。1920年代後半から、中国の社会教育領域では、従来の学校教育に教育機会を与えられない民衆たちを対象とした「民衆教育」が全国的に実施されるようになった。本論文では、民衆教育の専門的人材を育成する初の高等教育機関である江蘇省立教育学院(以下、教育学院とする)に焦点を当て、その取り組みを考察したい。1928年、中華民国大学院(日本の文部科学省に相当)によって開催された第一次全国教育会議で「民衆教育案」が公布され、近代中国において初めて「民衆教育」が全国レベルで提起された1。その後、国民政府の主導下で、民衆教育館や民衆学校などの一般民衆への教育・教化を実施する教育施設が各地に設置されることになり、民衆が身近なところで教育を受けられるようになった。当時中国の民衆教育は、これまで近代学校教育と無縁であった民衆に教育機会を与えた点で1091.問題提起中華民国期における江蘇省立教育学院の展開万  静嫻

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