教育評論第38巻第1号
112/208

(denomination)に対してオープンであり、ノン・クリスチャンに対しても包摂的である。106来日」の記載はFrancis C. T. Wang(王春涛)の誤記と推察される。45 Hsu(1925)。投稿者Hsu Meng Hsungについては未詳。46 同前。47 Laity(2001)参照。48 帥雲風(1930)。以下も全て本文に拠る。帥雲風は1926年3月、南京の金陵大学から書院に転入した。書院の中華学生部部長が坂本義孝であり、授業でも坂本のクラスに出たものと想像される。だが、本文の第二節によれば、勉学上のことのみならず、それ以上に、人生の危機を救ってくれた「再生之師」と坂本を呼び、感謝を捧げている。入学の翌年(1927)中国に革命の潮流が沸き起こった際「政治の渦に巻き込まれ、獄中に呻吟すること一年とまたひと月」、それを坂本が諸方面奔走して救い出してくれたという。具体的な経緯は書かれていないため未詳だが、おそらくは国民革命ないし武漢政府の関係で逮捕投獄されることがあったものと推察される。なお、帥雲風については山﨑ほか(2018)参照。49 この推論を支えるもう一つの傍証的根拠として、引用史料の第四節で帥雲風が、日本に渡るに際し「坂本[義孝]・森澤[磊五郎]・寺中[猪介]の三先生[いずれも書院の教員]が私のために大勢の日本の知友をご紹介くださった」として数人の名を列挙した中に「友和会の丸山傳太郎」が含まれていた点がある。丸山傳太郎は中華民国留日キリスト教青年会の名誉幹事で、中国人留学生のための宿舎「翠松寮」を運営しており、「留学生友遇使」の名刺を用いることが多かった。確かに友和会設立時以来の幹部メンバー(会計幹事を長くつとめた)であり、FORメンバーであることも知られていたが、この文章の掲載誌『日華学報』では翠松寮の丸山傳太郎として登場することが圧倒的に多かった。ここも敢えて「友和会の〜」と肩書きを付けた可能性が高いのではないかと考えられる。なお、丸山傳太郎については金丸(2021)参照。50 カモフラージュという言い方は、逆にミスリーディングの懸念もあるため、補足説明する。FORは決して秘密結社ないし地下組織ではなく、あくまでもオープンで合法的な団体である。ISFにおいて宗教的な要素が回避されているのは、国家・民族や政治信条、宗教信仰、性別等の別を一切問わず、ユニバーサルな学生団体を目指したからであり、ISFに関する論述に宗教的な要素が見られないのはそのためである、というのが筆者の理解である。一方、FORは明確に非戦を主張しており、それは戦争への動員が強化されてゆく時代相の中で、常に国家装置──具体的に例えば日本であれば特高警察──の監視の目が光っていたことも事実であり、実際に監視の目をくぐり抜けるため会員間の通信や公開の刊行物において、いわば「暗号的」な表現が慎重に駆使されてもいた。51 FOR会員の圧倒的多数はクリスチャン、多くはフレンド派(クェーカー)であるが、他の宗派52 FORの反戦・平和活動は、YMCA/YWCAを中心とする、大学生による海外伝道ボランティア運動(Student Volunteer Movement for Foreign Missions; SVM)や、それに端を発するWSCF等のグローバルな超教派的運動と密接に連動していたと思われる。また、賀川豊彦を中心とする「神の国運動」や、それに相応ないし呼応した中国における誠静怡らによる「五カ年運動」、米国発の「オックスフォードグループ運動」(Oxford Group Movement)との関連も深い(布川(2011)、庾(2020)参照)。さらに、こうした思潮の背景には、世界恐慌に象徴される資本主義社会の危機やそれと連動する共産主義的な社会運動の台頭を含め、国際社会を舞台とする政治・経済・文化的ヘゲモニーをめぐる大きな動き、せめぎあいがあった。こうした複眼的・重層的な観点から「面的」ないし「立体的」な研究の進展が今後の課題である。エキュメニカル

元のページ  ../index.html#112

このブックを見る