教育評論第38巻第1号
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 ダのヴィクトリア大学総長への就任直前であったが、もともとホジキンとともに成都の華西協和大学(West China Union University)の教授として中国伝道に従事しており32、FORとのつながりは小さくなかった。新聞報道によれば講演では太平洋調査会(IPR)京都会議の印象を語ったという。IPRにも日・米・中の国籍を問わずFORメンバーが参画していたことを考え合わせると、Wallaceが講演者に招かれたのも偶然ではなかったかもしれない。カービー・ペイジの講演については本稿3.5で触れた。著名な反戦・平和運動家であり、米国FORの機関誌World Tomorrowの編集長をつとめ、日本FORから同会メンバー永田保羅訳で『イエスは愛国者なりしや』(1929)が翻訳出版されていた。ペイジの講演と同じ1930年3月にはシャーウッド・エディもISFの総会で講演しているが、実は両名ともに米国FORのコアメンバーであり、The Abolition of War(1924)等の共著書をもつ反戦平和運動の同志であった33。このときは連れだって「東洋」(中国、日本、朝鮮)への平和宣伝と状況視察の旅を展開中であり34、中国各地を見て回りながら講演・説教を行っていた。ペイジの演題は「世界の青年における平和運動」、エディの講演テーマは未詳だが、おそらくは国際的な平和運動の動向と関連する内容を語ったのではないかと想像される35。1931年2月28日開催のannual banquetではThomas M. Tchou (朱懋澄)が「学生と国際親善(Students and International Good Will)」のテーマで講演を行った。新聞報道によれば「将来の世界平和への責任は、あげて青年学生層の双肩にかかっている」と訴えるものであったという36。朱は1923年3月8日米国への入境記録(サンフランシスコ入港)で米国内の友人欄にKirby Pageと記入37。また1927年8月に上海で開かれた「キリスト教経済会議」(the conference on Christianizing economic relations)に中国FORメンバーのヘンリー・ホジキン、誠静怡38、フランク・ローリンスンらとともに参加した。この会議には日本から賀川豊彦とその英文秘書ヘレン・F・タッピング(FORメンバー)が参加しており39、FORとのつながりがあったのではないかと推察される。朱懋澄がFORの正式メンバーであったかどうかについては今後の調査に俟ちたい40。続いて、ISFの設立時、そして休止期間後の再興を支えた人々も見ておこう。設立時に坂本義孝を強力にサポートした人物としてHarry L. Kingman(1892−1982)と994.1.5 Kirby PageとSherwood Eddy4.1.6 朱懋澄4.2 ISFの設立・再興を支えた人々の検証4.2.1 設立時──Harry L. Kingman、Maxwell StewartMaxwell Stewart(1900−1990)の名が特筆されていた41。Harry L. Kingmanは天津の宣教師家庭に生まれ、野球選手としてニューヨーク・ヤンキースでプレー。引退後聖職者として海外伝道に加わり上海のYMCAで奉仕した。ニューヨークFOR発行のNewsletter, No. 4(1927年10月)によれば、9月8〜11日に開催されたFORの年次大会に出席して中国の実情について講演している42。FORのメンバーであったか否かは不明だが、接点は

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