ていたタブロイド判の月刊誌『ワレラのグラフ』(英文誌名:Christian Graphic)の寄稿者であったこと、同じくFORメンバーであったと言われる妻の太代子が上海事変の戦火を避けて日本に一時帰国したパーソナルな消息が同誌に掲載されていることが挙げられる24。坂本義孝をISFの「創立者(the founder)」と称する言い方があるが25、過言ではあるまい。ISF関係の新聞記事への登場回数が最多というだけでなく26、特に1924年創設時の最初の会合と1930年の再興時という節目のタイミングでISFの存在意義を強調する講演を行っていることから、ISFの実質的なトップリーダーであったと見なしてよいと考えられる。本稿3.2(沿革)で触れたとおり、ホジキンは1915年FOR創設の代表発起人であり、中国におけるFOR組織「唯愛社」の発起人・会長であったと同時に、日本におけるFORの創設にも深く関わった人物である27。ISFが記念すべき最初の例会にホジキンを招き国際主義運動(international movement)の意義を説く講演をアレンジしたことはISFとFORとのつながりの深さを象徴的に示すものと見られる。1925年11月に講演を行った顧子仁(T. Z. Koo;1887−1971)はYMCA運動のトップリーダー J. R. Mottの強い感化を受け、Mottが牽引した世界学生基督教同盟(WSCF)の副会長として1922年4月北京清華学校で開催されたWSCF第11回大会を成功に導いた立役者の一人である。本大会は日本と中国におけるFOR設立に向かう歴史的文脈として最重要の契機の一つとなったものであり28、顧子仁は中国FOR(唯愛社)でも大きな存在であった。その後も彼は河井道(顧子仁とともにWSCF北京大会に際し共同で副会長の重責を果たした)をはじめとする日本のYMCA・YWCAと常に手を携えつつ、日中米欧間を縦横に奔走してクリスチャンの国際的平和運動に活躍した。ISFでの講演テーマ・内容は未詳だが、WSCFやFORが取り組んでいた国際的な平和運動・非戦の主張にそうものであったことは想像に難くない。ギルバート・ボールス(1869−1960)は基督友会(Society of Friends;フレンド派、クェーカーとも呼ばれる)に属し、大日本平和協会の設立そして日本のFOR創設にも大きく関与29、FOR設立時に「常置委員」(secretary)に選出されて以来、最もアクティブなメンバーの一人としてその重職を担い続けた人物である。新聞記事30によればボールスの講演テーマは「日中関係」。vice president of Peace Society of Japanと紹介されており、ISFは活動休止からの再出発という重要なタイミングで、極めて時局的な、国際平和運動と直接関わる人選と内容で講演会を企画したことが看て取れる31。当日(1929.12.15)は200名近くの出席者があり、坂本義孝が冒頭の挨拶、司会をつとめた。もう一人の講演者Edward Wilson Wallace(1880−1941)は上海を拠点に中国基督教教育会(China Christian Educational Association)の総幹事として活躍した人物である。このときはカナ984.1.2 Henry Hodgkin4.1.3 顧子仁4.1.4 Gilbert Bowles、Edward Wilson Wallace
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