教育評論第38巻第1号
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3.4.1 ナショナル・ナイト(National Night)「ISFの会合の中でも最も興趣に富むもの」としてNational Nightがあった。各校が持ち回りでホスト役となり、各国の特徴的な文化を表すような演し物を披露し、その国ならではの料理でもてなすというものである。ISF設立当初は以下のように4回実施された。3.4.2 書院主催のJapanese Night3.5 活動休止から再興へ3.6 参加校の拡大まぜたプログラムが折々に工夫された。さらにその時々によって、互いの食文化を理解・体験する機会として各国の料理、茶菓等のリフレッシュメント等が用意された。だが、1925年の「五・三〇事件」をはじめとする中国民衆の反帝国主義的運動の高揚を背景にセントジョンズ大学が閉校という大きな危機を迎えた影響もあってであろう、1927年以降ISFは勢いを失い、活動停止状態に陥ったのであった。そうした中で1930年、3人のクリスチャン・リーダーの主導によりISFは再び自らの歩みを開始するに至った。王春涛(Francis C. T. Wang)、坂本義孝、そしてフランク・ローリンスンFrank Rawlinson(Chinese Recorder編集長)であり、再出発の狼煙として大々的に開かれたのが米国FORの機関誌World Tomorrowの編集長で平和運動家として著名なカービー・ペイジ(Kirby Page;1890−1957)による講演とバンケットパーティーであった19。かくして活動を再開したISFは、この年(1930)から新たに3つのメンバー校を迎えた。上海パブリックスクールの男子校と女子校(Shanghai Public School for Boys/for Girls;中文名称:西961925年2月1925年5月1925年11月1926年4月(出典:“An International Organization”, NCH, 1930-03-18, p.436をもとに筆者作成)だ表1:National Night一覧年・月名称American NightChinese NightJapanese NightAmerican Night場所SASSt. John’s Univ.書院SASNational Nightの一例として、書院がホスト役をつとめた1925年11月14日のJapanese Nightを見てみよう。会場は上海日本人倶楽部。坂本義孝による開会の辞に続き、日本国際連盟協会学生部理事で慶應義塾大学総長の林毅陸のスピーチが行われた(林はこのとき同協会学生部の上海支部創設記念講演のために来滬)。その後、食事とエンタテインメントの時間に移り、すき焼き(sukiyaki)が振る舞われ、君が代その他の歌、追分節などの民謡、琴・三味線・尺八の演奏(いわゆる三曲)、生け花の実演、柔術や剣術、剣舞等の余興が次々に繰り広げられる盛会であった18。

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