早稲田教育評論 第37号第1号
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1.問題提起キーワード:民衆教育、民衆教育教科書、社会教育史、中国教育史【要 旨】教科書は、教育側が追求する社会や個人像の創出という目標を反映するものである。そこで、中華民国期に展開された民衆教育の性格を理解するために、当時の教科書の検証は不可欠であると考える。本稿では、中華民国期に使用されていた民衆教育の教科書を分析し、当時の民衆教育は民衆に何を伝えたのかということに焦点を当て、民衆教育の具体的な教育内容や、望んでいた国民の姿を明らかにしたい。1928年から新中国成立までの間に、数多くの民衆教育教科書が出版されたが、民衆教育教科書の内容は大きく変化した。1930年代初頭において読み書き能力の育成を重要視した民衆教育教科書は、徐々に公民教育の要素が強くなっていった。1936年、国民政府教育部が民衆教育教科書を改訂し、『民衆学校課本』という新たな教科書が登場した。『民衆学校課本』は「民衆に公民として必要な知識と技能を習得させる」という教育目標に基づいて編成され、民衆の民族意識・愛国心の醸成を中心に、歴史や地理、衛生、自然など幅広いテーマの内容が取り上げられている。しかし、『民衆学校課本』に登場した歴史上の人物の殆どは愛国英雄であり、日常生活の内容としては民衆の生活様式を国民政府が求める価値規範に合わせるものが多かった。当時の教科書は、精緻に内容を選別、編成することによって、民衆の価値観を国民政府の価値観に一致させるように教育・教化を行おうとしたことが読み取れる。識字率が極めて低かった当時の中国社会では、全国的な範囲で普及していた民衆教育施設で使われた『民衆学校課本』などの識字課本は、当時の中国におけるナショナル・アイデンティティの創出・維持、とさらにそれを強化するための重要な手段として用いられてきたことが窺える。このような教科書を通して、民衆は国旗や国歌、国暦、国慶など国のシンボルを学習・体得して、共同の中華民国のアイデンティティを形成したのである。1928年、北伐(国民党による全国の統一を目指した戦争)の完成に伴い、南京国民政府は基本的に全国を統一した。翌年、国民党第三次全国代表大会においては、中華民国の教育宗旨を「三民主義を基礎として、人民の生活を充実させ、社会でよく生存できるようにし、国民の生活を発展させ、民族の生命を長く保つことを目的とし、努めて民族の独立と民権の普遍化、及び民生の発展を期し、もって世界の大同団結を促進する」と規定した。ここからは教育における三民主義(民族・民権・民生)という国民党政権のイデオロギーを強調する姿勢が見られる。また、その時期においては、ばらばらでまとまりのない民衆を近代国家に相応しい国民に教育、教化する動きが見られた。具体的には、1929年から一般民衆を対象とする民衆教育は中国各93中華民国期の民衆教育は民衆に何を教えたか?─民衆教育の教科書に対する内容分析から─万  静嫻

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