⑴「古文」とは何か口頭発表で、今次「学習指導要領」では「日本漢文」を「上代以降、近世に至るまでの間に日本人がつくった漢詩と漢文」と定義していること、「漢文」については「中国の文語文」21としていることを説明した。また、「言語文化」で「近代以降の文章」を扱うことになっているが、以前、「現代文」の授業で「舞姫」をやった際に、「「現代文」の授業なのに、古文を読まされているようで嫌だった」という感想を持つ生徒がいたことを述べた。これに対して、今後「言語文化」で近代以降の文章や、近代以降の文語文を扱うのだから、「古文」とは何かについても明らかにする必要があるのではないか。という意見が出た。⑵中国古典作品はどう扱うのか中国古典文学が専門の部会員からは、従来、高校等の授業では、李白や杜甫の漢詩や『史記』や『論語』のような中国古典作品は、そのまま中国古典作品として扱ってきたが、今後はそれらがどのように日本文化に受容されていったかという観点で扱わなければならないのか。という疑問が挙がった。⑶大学の中国文学の教え方も変えなければならないのか同じく古典中国文学を専門とする部会員から、大学の中国文学の授業も日本文化との関わりを意識した内容に変える必要があるのかといった疑問が挙がった。高校から大学への接続性からいえば、今後大学入試も変化することを受けて、従来と全く同様というわけにはいかないだろう。この指摘は、特に「言語文化」という科目において検討すべき課題となろう。協議の場では、「古文」の定義をするならば、時代で区分するのではなく、「漢文」と同様に文体で区分するのが妥当だろうという方向で議論が進んだ。筆者もこれに賛同する。時代で区分しないとなると、教科書作成や学校現場でかなりの混乱が見られるだろうが、現代に至るまでの言語文化の変遷を学ぶのであれば、従来の「古文」「漢文」「現代文」の壁を乗り越える必要があるだろう。筆者も「日本文化における中国古典作品の受容と独自の発展」という観点で教材を扱うのは重要だと考える。中国古典作品が日本文化に与えた影響を明らかにするために「比べ読み」等の学習活動も多く取り入れられている。しかし、常にそのような学習活動を行う必要はないし、授業時数から考えても不可能であろう。古来、日本では中国古典作品を訓読することによって受容してきた。つまり、訓読すること自体が日本文化における受容の特徴と言えるのである。したがって、国語の授業でも漢文を訓読することで、既にその観点に立っているのである。だが、それをより意識的に扱う必要はある。たとえば、授業で杜甫の「春望」や孟浩然の「春暁」等を扱う際、これらの漢詩が日本人の人口に膾炙してきた理由を考えてみる。それは、「国破れて山河在り」や「春眠暁を覚えず」のような訓読によって漢詩を受容してきたためである。そうしたことを生徒と共有しながら授業を進めていくのが肝要だと考える。今次改訂を受けて、「言語文化」と「古典探究」で「日本漢文」を扱うことになったが、日本人の漢詩人は、漢詩をつくる際に日本文である書き下し文の調子を重視する。それと同時に押韻や平仄にも拘る。押韻や平仄は訓読すると消滅してしまうのに、和習(倭臭)を嫌って拘るのである。これも日本漢詩の独自性だという点を意識して授業をする必要があるだろう。89
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