早稲田教育評論 第37号第1号
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74『北陸タイムス』1920年8月2日、3面)。19) 前掲記事、『富山新報』1919年8月27日、3面。20) 「女学生の登山隊」『富山日報』1919年7月28日、3面。「休暇中の体育施設」『高岡新報』1920年7月17日、2面。「高岡女学生の五箇山登山」『富山日報』1920年7月21日、3面。「海に山に姫達が」『北陸タイムス』1921年7月20日、3面。「高中校の水泳」『高岡新報』1921年7月20日、3面。「神中校でも臨海教授」『富山新報』1921年7月21日、3面。「山へ!海へ!県下各中等学校の夏休み中の体育施設」『高岡新報』1921年7月22日、3面。「一高生の立山登山」『富山新報』1921年7月14日、3面。「いよいよ之からは避暑地の世の中」『高岡新報』1921年7月5日、5面。「南富山駅へ現はれる立山登山者の群」『富山新報』1921年7月20日、3面。「滅切殖えた登山者」『富山新報』1921年7月25日、3面。「海へ行く人々に山へ行く人々に」『高岡新報』1921年7月27日、3面。「探勝客を迎う黒部峡谷の設備」『北陸タイムス』1921年7月28日、5面。「婦人の海水浴」『北陸タイムス』1921年8月9日、3面。「海岸の大賑ひ」『北陸タイムス』1921年8月15日、3面など。21) 富山県『富山県政史』1929年、447-448頁。 22) 富山県教育史編さん委員会、前掲、1972年、15、41-42、59、96-107頁。23) 周知のように、大正期に児童中心主義的な教育を実施した成城小学校、成蹊小学校、児童の村小学校などの新学校は、自然環境に注目し「野外における教育」に精力的に取り組んでいる。24) 富山県教育史編さん委員会、前掲、1972年、67頁。25) 「夏季休暇の利用に就て」『富山日報』1921年7月9日、1面。26) 「白砂青松の太田の濱で臨海教育を行ふ」『高岡新報』1921年7月26日、3面。 27) 「臨海教授決定」『富山新報』1921年7月19日、2面。「富山市各校選抜の臨海教育効果顕著」『高岡新報』1921年8月10日、1面(日付に誤植があり8月9日付になっている)。28) 「小学校の禅生活」『高岡新報』1921年7月21日、5面。なお、同記事によれば、高岡高等小学校は臨海教育ではなく、寺院に宿泊して精神修養と体育と学科の向上を計るという。29) 中田栄太郎「夏季休業と臨海教育」『富山教育』第94号、1921年、6頁。30) 「大正八年六月学校衛生主事会議に於ける赤司普通学務局長の訓示要領」『富山県教育会雑誌』83号、1919年、30-31頁。31) 「暑休存廃是非 夏期学校の特設」『富山日報』1920年7月14日、1面。『高岡新報』でも、休暇後に学力・体力が低下するため、林間・臨海教育の実施が必要と高岡高等小学校長が論じている(「市内小学校で暑中休暇 善用の新しい試み」『高岡新報』1920年7月17日、3面)。32) 「楽しい暑中休暇」『高岡新報』1921年7月7日、3面。33) なお、富山県教育会が発行した『富山教育』第94号は「臨海教育号」とも銘打たれており、記事のほぼ全てが富山県内で実施された「林間学校」の報告であった。具体的には師範附属小学校及び富山市内小学校の臨海教育のほか、高岡幼稚園の臨海保育、上新川郡太田小学校の夏季臨海生活、神通中学校の臨海生活、高岡高等小学校の僧庵生活の実践報告が掲載されている。県内の複数の学校で同時に「林間学校」の実施が試みられ、また教育会の雑誌で特集が組まれるなど県の教育界においても「林間学校」への注目が十分に高まっていたことを示すものといえる。34) 附属小学校「臨海教育」『富山教育』富山県教育会、第94号、1921年、7-8頁。35) 「四方で臨海教授 然し同海岸は頗る不潔」『高岡新報』1921年7月5日、2面。「海は四方か氷見の太田か」『富山日報』1921年7月6日、5頁。36) 附属小学校、前掲、10頁。37) 氷見郡太田小学校のことと考えられるが、記事や新聞報道では太田村小学校と記載されているため、本論文では太田村小学校の名称を使う。

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