2という文章をのこしている。これは鹿野の著書の中の論考の一つの題目であるが、この本の表題ともなっている。本書は「いわば権威として人びとに臨んできた」学問に対する反省から、戦後歴史学の「自己点検」を目指しているとするが、その中で島尾敏雄の「ヤポネシア論」1に言及し、島尾が1962年6月13日に鹿児島県大島郡市町村議会議員研修会で行った講演「私の見た奄美」について、次のように述べている。その結末部分がとりわけ、わたくしの心を波立てた。こんなふうにのべている。「各種の日本地図を見ますと、種子、屋久までは書き入れてありますが、その南の方はたいてい省略されています。それは地図の紙面がないということだけではないようです。われわれの意識の底にそこははずしてもいいというような感覚が残っているのです。」種子島・屋久島を含む薩南諸島の南には、奄美諸島・琉球諸島が連なる。その言には、奄美に住むようになった島尾の感覚が投影している。が、彼の言はそれだけにとどまらない。日本全体の規模での問題を、奄美のなかの問題へと遷して、こう考える。「たとえば奄美の地図を書く時に、徳之島の西の方の鳥島を落としていても平気だという気持をなくしたいのです」(「鳥島」は通称で、正確には「硫黄鳥島」)。さらに彼は、地理上でのそういう意識を、歴史上に置き換える。「と同時に、日本の歴史の中であるいは日本人の中で、はじっこのほうだから、落としていいというふうな考え方を是正して行かなければならないと考えるわけです。」そこには、〝斬り捨てる″のとは対極の思想が表明されていた。その意味でこの思想は、わたくしにとって一つの啓示となった。わたくしたちの歴史学には、はたして「鳥島」は入っているか2。島尾は、日本について考える時に奄美や沖縄が抜け落ちてしまうことがあるという問題について、あえて硫黄鳥島のような無人の離れ小島の例を挙げ、奄美の地図から硫黄鳥島が見落とされるのと同じ問題であると指摘することで、人々が無意識のうちに周縁を無視している状況の深刻さを浮かび上がらせ、またそれを気づかせようとしている。鹿野はこれを踏まえて、歴史学の研究が周縁を斬り捨てるようなものになっていないか、自己点検の必要性を表明しているのである。「『鳥島』は入っているか」の素材となったのは、1970年代の「岩波講座」の月報に編集後記として寄せた文章3である。これは「意識しなかったといえばうそになる。名だたる国立大学出身者ぞろいの編集委員のなかで、たった一人、私立大学の出であることを。」という一文で始まる。早稲田大学教授であった鹿野は、私立大学の出である自身について、アカデミーと非アカデミーの間にいる存在として捉え、「岩波講座」に対して相対化する視点を持ちたいという観点からこの文章を書いている。「さて、この講座のえがいた日本歴史の地図には、はたして『鳥島』ははいっているか。『東海道のメガロポリス』だけが拡大されていることはないか。」と述べており、アカデミーで体系化され、権威付けられた日本史学の中で見落とされる存在に対する思いから「鳥島」について言及したものである。鹿野の指摘は極めて重要であり、またもっともなものであるが、ここではさらに硫黄鳥島についてもう一つ考えてみたい。それは、「なぜ硫黄鳥島は『日本』なのか」という問題である。
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